『ハゲタカ』最終回とETV特集「あしたのジョーと、あの時代」

bakuhatugoro2007-03-26



『ハゲタカ』最終回を観る。
やや竜頭蛇尾と言おうか、正直ちょっと残念な印象。
フラガール』について、「そんないい話にしてくれなくていいよ」なんて感想を書いた途端に、『ハゲタカ』もそうなってしまうとは...


見逃していた1、2話も、http://video.google.com/videosearch?q=hagetakaで観ることができた。 こっちは抜群に面白い。
バブル期に、銀行にそそのかされて事業を拡大した揚げ句莫大な借金を抱えてしまった、理念とプランを持たない老舗旅館の2代目を演じる宇崎竜童の(ほとんど見た目稲川淳二な)駄目芝居は真に迫っていたし、親族経営で会社を私物化、「社宅」と称して経費で豪華な邸宅に暮らし、社員に庭掃除させて「社員教育の一環」と平然とうそぶく女社長役の、稚気とプライドの化け物のような富士真奈美の怪演ぶりも凄かった。


その一方、宇崎の息子の松田龍平は、創業者である祖父への意地とコンプレックスから傷を広げていく父親の無定見に苛立って確執を深め、その後父が自殺してしまったために「自分が殺した」との桎梏を抱え込み、また、富士真奈美の女社長は、それぞれ銀行とハゲタカファンドをバックに実の息子と骨肉の争いを繰り広げるが、その動機の大元には、彼女が大切に守ってきた創業部門を息子が合理化のために切り捨てようとしたことがあったりもする。
こうした経営者側の事情や人間性を描き込みながら、それをハゲタカ大森が冷徹に割り切っていくことで、ドラマは緊張と重量感を増していく(しかも、買い叩かれ、転売された企業は、その後この処置が功を奏して再生していることが、さりげなく語られたりもする)。


こうした展開にシビれていたからこそ、最終回、大森に自分の内心を滔々と語らせてしまったことは、本当に残念でならなかった。
大森や龍平の、自分の弱さ、甘さを否定しようとする頑なさと、自分にそれを許さなかった現実への怒りがない交ぜになった、グレーな二律背反ゆえの存在感を、「人にはそれぞれ事情がある」式に解決させてしまっては台無しだと思った(「事情が判っても受け入れられない」からこそ、ドラマは生まれるのだから)。
寡黙な技術者として無言の存在感を放っていた田中泯に、ドラマのテーマそのもののような長ゼリフを喋らせてしまったのも同様。
大空電気の創業部門であるレンズ事業部を、米の軍事産業に売却しようとするハゲタカファンドに対して、大森と恭兵が手を組み、技術のある社員を糾合して独立させ、かつての敵役である中尾彬の銀行重役を「国益」の一点で説き伏せて金主に引っ張ってくるという展開自体がワクワクさせるものだっただけに、できれば今まで通り、サスペンスの緊張感で見せて貰いたかった。いくら過去の贖罪を動機として持っているとは言え、根っこに野心のギラギラがないハゲタカなんて、どこか嘘くさい。


あと、これは自分の無いものねだりなんだが、伝統と合理性の間の断層についても、例えばはじめからジャスコドンキホーテの便利さに慣れ、安さに恩恵も感じている若い世代が、暮らしたことも無い地元商店街のコミュニティの大切さをわざわざ実感するための手がかりが途切れてしまっているように、そうした下部構造から来る断絶の深さについて、今一歩シビアに踏み込んでくれれば、とも思った(龍平たちのあのきっぱりとした斟酌の無い怖さに、それは確実に関係しているはず)。逆に言えば、そのあたりの、目配りはいいがどこか整理されすぎている「若さ」の気配が、このドラマへの僅かな物足りなさの核という気もする。


ともあれ、こうしていろいろわがままな注文付けたくなるほど入れ込み、楽しませて貰ったことは紛れも無い事実。
こんなに夢中でテレビを観るのは、本当に久しぶりだった。
NHKさんありがとう。今後も骨太なドラマをよろしく。





続けて、「あしたのジョー」と団塊世代についてのETVスペシャルを観た。
なんと言うか、この種の団塊世代の語り合いを見ていると、自分達がその道程で抱えたものが社会に普遍的な大問題であるかのような、手前味噌臭さをどうしても感じてしまう。夏目房之介氏のような、一見冷静でニュートラルに見える人の韜晦交じりの語りにも、やはりそれを感じる。


その一方で、当時、女子は就職後25歳で肩たたきに合うのが当たり前で、片方で自由や民主主義の影響を受けて育ちながら、結局専業主婦になることしかできず、自己否定しながら子供に過大な期待をかけていったとか、貧しい親に負担をかけて学生生活を送り、さらに貧しい世代の機動隊員に向かって石を投げること欺瞞を感じたといった話を聞いていると、貧しさと豊かさの派境いで屈託していた自分の経験にストレートに響いて、共感できる。
逆に言えば、「そういうことは俺も経験したし考えたよ、しかも時代の追い風で持ち上げられたり甘やかされたりすることなく、自分独りで!」とも思う。


一方、実は彼らの多数派だった、集団就職世代の読者の声を聞いていると、懐かしいと同時に今だ頭が上がらないような気持ちになる。
梶原一騎夫人の、「貧しいからこそ、それに負けたくない、心に気高さを持っていたいという気持ちでやっていた」という言葉には、当時の読者の感応の熱っぽさの裏づけを感じた。


「弱い自分を克服して、突き進みたい。例え破滅しても」というストイシズム。それが集団の強迫観念として流れになっているような状況の怖さは、自分も身に沁みているけれど、おそらくそれを当事者の痛みとして知らないだろう下の世代を、団塊世代以上に遠く、ちょっと不気味に思う気持ちが自分にはある。
そして、そうしたストイシズムをタブーとして蓋をした団塊世代以降、僕たちはまだ、ストイシズムと一体化できない自分達にとっての倫理とは何か、責任とは何かを考え、下の世代に語ることが、まったくできていないと思う。