団塊パンチ ちあきなおみ特集


団塊パンチという雑誌には、どうにも微妙なムズガユさを感じる。
「未来は過去にあり」というコンセプトには大まかなところでは共感するんだが、(一応表向きの受け手に設定しているとはいえ)対象が「団塊」ってところに興味が出ない。
昭和元禄の狂騒と開放感は趣味的、ファッション的にはヴィヴィッドで大好きなんだが、本質的には「もう知っていること」で、それが新鮮だった頃を懐かしんだり持ち上げたりすることにあまり必要を感じないのだ。
当時の自由や個人主義への志向、価値観は、根本的にはその後の世代含め現在までまっすぐ地続きのもので、それに疑いを挟むことはむしろタブーで有り続けている。だから自分が現在知り、学びたいと思っているのは、そうした戦後生まれ、団塊世代以降の価値観を、外から相対化する視線。とりわけ、戦前と戦後をまたがって生き、その両方に裏切られた戦中派、もっと限定すれば、戦中に自我形成期を過ごした世代の声と実感の方なのだ(そして実は、彼らこそが6、70年代において鮮烈な表現の送り手だった)。
個人主義が行くところまで行きつき、下り坂の停滞感と、お互いの細かい自意識で窒息しそうな現在、そうした「生臭さ」から一歩引き、当時(の現実ではなく、文化的なイリュージョン)をしゃぶりつくすような志向を選ぶセンスは理解できるが(というより、編集長の赤田祐一さんがそうした根っからの6,70年代サブカルオタクだってだけなんだが)、回顧対象がいかに熱いものであっても、この姿勢はやはり最終的に後ろ向きなものだ。つまりこれは、あのイエスタデイワンスモアの「20世紀博」なのだ。
狭い意味で現在のニーズに合っているが、未来への企ては無い。


1号に目を通した時点でこの印象は決定的なものだったので、2号のビートルズ特集にいたっては本当に「今更」な食傷感しか感じず、立ち読みもロクにしなかった。
しかし、今号の特集がちあきなおみだと知って「やるな!」と思った。
ちあきなおみこそ、6、70年代サブカルチャーポップカルチャー回顧に隣接しながら、確実にそれをはみ出していて、それはそのまま、現在失われたもの、足りないものへの渇望感を象徴するように支持されている存在だからだ。
そんな彼女を、一挙80ページ大特集。これはさすがだと期待した。
演歌歌手として売り出そうとする事務所と、もっと自由にストレートな歌を歌いたい彼女の間の確執、最大の理解者だった夫郷硏治との結婚と事務所との決裂。芸能界から受けた報復と、彼女を支えた夫との二人三脚の活動。郷の実兄である宍戸錠のざっくばらんなインタビューを含め、多くの周辺人物を取材した興味深いエピソードは多かった。が、にも関わらず、何かが決定的に食い足りない印象が残る。
一言で言って、編集側がちあきの魅力の本質、そして、何故現在、ちあきがこれ程の支持を集めているかの核の部分を、まったく理解、体感していない気がするのだ。だから、折角のエピソードが唯、事実の羅列でしか無くなってしまう。
唯一、藤木TDC氏の「けっして表舞台に現われず、発言も執筆もせず「静かな時間」の中に潜み、人知れず消えてゆきたいという、虚無的で厭世的な生き方(中略)そんな頑なさに、ちあきなおみという生き方が支持される理由があるに違いない。」という一文は、それに触れかけているように思えるが、それを「虚無」「厭世」と捉えてしまう人生観にやはり限界を感じてしまう(それはむしろ、「自分の真実は自分が知っていればいい、その代り誰にも触らせないという潔さであり、まさに「含羞」、そして正しく「義理」「人情」という言葉こそがふさわしいと思う)。彼女が夫に支えられて作り上げた、ジャズやシャンソン、ファドを歌ったビクター時代のアルバムが現在の「大衆歌謡リバイバル的な」ちあき人気と分裂しているという分析も、NHKの歌伝説の反響を見る限り、全く的を射ていないと思う。


ちあきなおみの魅力の核は、歌への圧倒的な感情移入の力。しかもそれがロックやニューミュージックのように「自己表現」に収斂せず、もっと広い聴き手の生身の現実、社会や時代に開かれていることだ。しかもそれは、それ以前の演歌や歌謡曲の定型をはみ出す生々しさを同時に具えている。
凄く生々しい表現なのに、エゴを感じさせない。
現在の自分は、ロックやフォーク、ニューミュージックなど、団塊以降の世代の自己表現としての歌には、本当の意味で心を揺さぶられることがほとんど無いが、ちあきの歌には魂を掴まれ、また心をゆだねることができる。
そしてこれは、決して俺の趣味の問題だけではないという確信がある。


団塊パンチ (3)

団塊パンチ (3)

これくしょん?ねぇあんた?

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