8月の光 1

父方の伯母の葬儀のため、また先週末帰省してきた。
こちらでの、日常非日常、仕事と趣味が地続きのまま、平気で混濁しっぱなしの毎日と、あちらに放ったらかしてある現実の間に宙ぶらりんになる落ち着かなさのため、道中、何か胸に響く読書がしたくなる。
今回持参したのは、水木しげるが自身の南方戦線への従軍経験を纏めた唯一の長編『総員 玉砕せよ!』。



俺は戦争を論じる際に、すぐに水木しげるを引き合いに出したがる論者が嫌いだ。
一兵卒として死線をさまよった圧倒的な経験の重さと、彼自身のもともとの資質も相まった徹底した脱社会的な個人主義。こうした特権的な個人を引き合いに出して、場の空気や他人の視線を気にせずには生きられない、多くの弱い人間たちが集い生きる社会を裁断し、我一人乗り越えたようなアピールをすることに何の意味があるだろう。
それは、自分と水木しげるの距離を自覚しない無神経か、虎の衣を借る卑怯者の振る舞いでしかない。
また、彼のような特権的個人の生き方は、我々凡人のそれの参考にはそのままではなりにくい。



けれど、そうした特権的な個人の、すべてを突き放しつつ公平に眺める視線によって描かれたこの作品は、戦争と、その中を生きた個々の人間の心情をフリーズドライして、後の心境や都合の変化による(多くは善意のつもりの)捻じ曲げなしに現在に伝えてくれる、本当に数少ない貴重な記録の一つだ。



いつも新兵にビンタで気合を入れる鬼軍曹は、部下思いの情に厚い男でもある。
慰安所に行列する兵隊達はほとんどオマンコにありつけず、慰安婦達と共に「女郎の歌」を合唱する。
小船で移動中鰐に食われ、材木の下敷きになり、立ち小便の途中に流れ弾に当たる、実際の戦闘以前、日常の中に淡々と続く理不尽な死。
圧倒的多数の敵に包囲され、「死に場所を得るために」玉砕を急ぐ、若く生真面目な大隊長。戦略的にさして重要とも思われない陣地を捨て、ゲリラ戦で生き延びることを進言する副官もいるが、上官の鶴の一声には逆らえず玉砕の列に加わる。
後方の本体の参謀長は、玉砕を血気にはやった犬死と判断するものの、大本営に「玉砕」を報告し、兵にも発表した以上、生き残りをそのままにしておいては全軍に示しがつかないと、生き残り達に再突入による死を命ずる。
「自分たちだけが生き残って恥ずかしい」という思いに苛まれ、一方で「何故自分たちだけが先に死ななきゃならん!」と理不尽を嘆く末端の士官たちも、とにかく日々食うことだけに必死だった兵隊たちも、それぞれの思いの如何を問わず、南国の陽光と原色の熱帯雨林の中で白骨と化していく。



俺は兼々、日本の戦争映画が描き漏らしている一番大きな要素は、戦闘そのものの悲惨さ以前に、無防備な海上輸送中に船ごと撃沈されたり、行軍中に栄養失調になり、マラリアで下痢便を垂れ流しながらバタバタと倒れていった兵隊たちの「日常」だと思ってきたので、今回再読して「本作こそが映画化されるべき!」と思ったが、今の人だとおそらく悪者をはっきりさせることで「理不尽」に分かり易い出口を与え、自分たちの認識を上に置いてしまうか、体験者ならではの自分の判断を超えた絶対的な状況の前で行きつ戻りつする思考のあがきや、何とかして現実をそのまま表現に焼き付けようとした結果の淡々と乾いた視点が、「為にする」「結論先にありき」のナンセンスや諸行無常へとすり替えられることが疑えないので、やはり嫌だなと思い直した。
水木しげるは、人命を軽視しいたずらに人々を玉砕に追い込んでいった日本的な「美学」に、本作で無言の怒りと苛立ちを滲ませている(と俺は読んだ)が、それを決して矮小化し、侮ってはいない。
そうでなければ、徹底した利己に卑劣なまでに居直った「ねずみ男」のようなキャラクターも生まれてこなかっただろう。
そして、かつてのような美学やストイシズムがタブーになった変わりに、「利己」や「卑劣」を自覚し、開き直ることも出来ないままそれを曖昧に美化している、「中途半端なねずみ男」ばかりが蔓延しているのが、現在なんじゃないか。



自分は、そうした現在に敢えてかつての身を張ったストイシズムや美学、同胞への責任と連帯を肯定的にぶつけた小林よしのりの『戦争論』をはじめとする仕事を、根本の姿勢において支持する者だが、彼の読者には一方で必ず『総員 玉砕せよ!』を読んで欲しいと思う。人間は一人で生きていけるわけではない以上、利己を超える理念や倫理は自分も求めてやまないが、現実の中の「犠牲」の重量を素通りした「美学」は、空疎で危険な傲慢でしかないと思うから。



(続く)

総員玉砕せよ! (講談社文庫)

総員玉砕せよ! (講談社文庫)