『フラガール』とシナリオ『六連発愚連隊』

フラガール』をDVDにて、2回目の観賞。
初見の時もあった、微妙な(微妙だからこそ尚更気になる)違和感を、よりはっきり感じる。
本当に、穿ち見とかそういうふうに取らないでもらいたいのだが、自分は率直な気持ち「無理にそんな良い話にしてくれなくていいよ」と思う。
滅びていくものと次の世代を、無理に和解なんかさせてくれなくていい。
旧いものが、時の流れの強制力によってただ滅んでいく様と、旧いものへの愛憎を抱えつつ、それへの反発と自身の欲望によって新時代に向かっていく人間のエネルギー、それぞれの栄光と悲惨が、ただそこにあるだけでいい。


そうじゃなくても寂しい時代だから、尖った寒々しさよりも暖かいフィクションに力を込めたいという気持ちは理解も共感もできる。だから自分も今、『悪名』をストレートにいいなと思ったりもするわけだけど、やっぱり『悪名』と『フラガール』は違う。作り手にも受け手にもはっきりフィクションという割りきりが前提になっている『悪名』に対して、『フラガール』は、もっと現実との距離が曖昧。作り手にも受け手にも、リアルなものを作っている、観ているという意識があると思う。逆に言えば、現実にはそうはいかないが、せめてお話の中では、という前提がない。
それがない中で、あまり「いい話」に喝采されると、自分などはそこに「いい話からはみ出したものは見たくない。それを認めないまま、わかったことにしてしまいたい」という、作り手と受け手のエゴと共犯関係を感じてしまう。


「人にはそれぞれ事情がある」ことへの理解の素振りになんて意味は無い。
それが決して埋まらないという事実に対する、歯軋りのリアリティだけがあればいい。


田舎の夜の長さ、娯楽のなさ、だからこその人間関係の濃密さ、それと裏腹の排他性。価値観の強固さと狭さ。
そして、それに反発するものの孤独と欲望、後ろめたさと極端な居直り。そうした歪みや葛藤という「人間らしさ」が、この映画にはどこにもない。
脚本が『パッチギ!』と同じ人だけれど、『パッチギ!』のオチに感じたのと同じ違和感を、井筒監督の暴力の生々しさが無い分、『フラガール』はよりはっきり感じた。


去年の映画で言えば、俺は例えば賛否両論が激しかった『嫌われ松子の一生』の方に、そうした「人間らしさ」を感じた。賛否が分かれるほど強いひっかかりを残す程度には、主人公の存在と感情が生々しかったということだと思う。


また細かいことをと言われそうだが、セットが薄汚くリアルな割に、女の子たちが着ている服が今風過ぎることが気になった。昭和40年の炭鉱の女の子が、あんな今風のニット帽なんかかぶってるわけない。てっぺんにぼんぼりがついてる「毛糸の帽子」だったはず。マフラーだって、幅広の今風のやつじゃなくて、お母さんが編んだやつを帽子の上からほっかむりみたいに括り付けていたはず。こういうところに出演者の、捨て切れてない自意識が見えると一遍に醒めてしまう。
みんな方言ふくめ、随分頑張ってたなとは思うけれど、やはり役者が「頑張って演じてる」って事の方が意識されてしまう。そういう意味で、巧い下手じゃなく、佇まいで納得させてくれたのは富司純子だけだった。




もやもやと不愉快な後味を何とかしたくて、半ば本能的に『六連発愚連隊』のシナリオ(月刊シナリオ 77年6月号掲載)を手に取る。自分が飢えていた部分に、見事にガツンと来る。
甲斐性ナシのチンピラたちが、甲斐性のなさゆえに女に甘え、甘えたまま踏み台にし、分不相応な夢を見て、逆に世の中に転がされ、一発逆転を狙うものの、見通しの甘さゆえにあっさり散っていく。
そして、甲斐性なしの寂しさに引きずられ付いていってしまう、勝気でやはり寂しい女。
みごとに懲りない、懲りることのできない馬鹿者たちの愚かな青春が描かれる。
仁義なき戦い』の、渡瀬やピラニア軍団の物語だけにスポットを当てて集中しきったかの、ボンクラたちの「ダチ感覚」あふれる物語。だが一方で、男に去られて気がふれた母親の記憶や、生家の屠殺業の風景など、彼らの出自の寒々しさが断片としてさりげなく語られる(笠原イズムの見事な継承!)。


アイドル女優主演のダンス映画とチンピラ映画というジャンルや時代の違いとか、暴力の有無で、個人的な好みや優劣を言っているとは思わないで欲しい。
『六連発愚連隊』は、どんなに世の中が変わり、進んでも、人間の中から決してなくならないし埋まらないもの、不幸や不合理や愚かさを、端的な形で思い出させてくれる。逆に『フラガール』は不合理を合理化しようとし、それを「できる」と錯覚しようとし、させようとしている。
それが俺の思う、両者の最大の違いだ。


毎度、現物に当たることが難しい映画やシナリオの話で申し訳なく思うが、70年代に書かれたまま(松田優作ピラニア軍団に出演を熱望されながら)未だ映像化されていないこのシナリオが、今こそ映画として世に問われて欲しいと心から思う。
時代に合わせた内容の変更やリメイクなどまったく必要ない。
むしろ、登場するボンクラたちのストレートな愚かさと、そのドラマのヒリヒリするような面白さは、現在が曖昧に誤魔化しているものを劇的に浮かび上がらせてくれるはずだから。


『六連発愚連隊』は「今でも」じゃない、「今こそ」作られるべき映画だと強く思う。


●『六連発愚連隊』について 参考リンク
http://osan6.cocolog-nifty.com/palpunte/2006/09/post_a696.html
http://osan6.cocolog-nifty.com/palpunte/2005/06/post_e926.html
http://osan6.cocolog-nifty.com/palpunte/2005/07/post_665e.html


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