「わしズム 21号」と『日本沈没』(旧作)

bakuhatugoro2007-01-23



去年の紅白をきっかけに、最近やたらと有線で流れるようになった「千の風になって」とかいう歌が嫌だ。
自分の身近な肉親の死に方やその心情を考えた時、ここで歌われている「千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています」だの「冬はダイヤのように きらめく雪になる」だのといった絵ヅラが、文字通りマンガにしか感じられない。
自分の身近な人間が、ありふれたつまらない人生を、人に気にされることも無いすすけた場所で、孤独に生き孤独に死んだのだとしても、だからこそそうした退屈さやつまらなさを彼のただひとつの真実として受け止め、覚えていたいと自分は思う。
自分達は、ここで歌われているような美しく大きな流れの中で、それを自分の世界だと肌で感じるような生き方などしていない。とっくの昔に根無し草だ。
だから、『やくざの墓場 くちなしの花』の「うちは日本人でもあらへん。朝鮮人でもあらへん。ハーフでもあらへん。うちは魂になって飛んでいくだけや」という半チョッパリ梶芽衣子のセリフが、気分としては結構わかる。
地元を離れて街場で暮らす人たちには、そういう人も実は多いんじゃないかと思うのだが、どうなんだろう。
それともはじめから、故郷に対する愛着も反発も共に薄いまま、何となく漂っているような人が増えているのだろうか。
そういう人が、わざわざこんな歌に感動することで、自分の実感を充填したりしているのだろうか。


最近の安易で表面的なノスタルジーブームの中で、平和で暖かいホームドラマや映画ほど観ていて薄ら寒い出来のものが続くのも、作り手が実はそうした風景やシチュエーションに本気の執着も反発も持っていない、外面の帳尻あわせでしかない為だという気がする。


小林よしのり編集『わしズム』の新号、特集「故郷なき「美しい国」を愛せますか」が面白かった。
小林よしのりはその時重心をかけている問題や、思い入れを持っている対象の立場にその都度おもいきり没入するせいで、それが一方的でアンバランスに感じられたり、語気の強い表現とこちらの思い入れとが衝突してしまうことも多かったけれど、それでも彼の感情の流れそのものにはいつもリアリティを感じるし、共感できることの方が多い。
特に今回は、「美しい国」だの「国家の品格」だのと、一方で共同体を破壊する市場原理主義や経済的繁栄は絶対に手放したくないくせに、「家族を大切に」とか「教育勅語」といった観念論にだけすがって思考停止する(あるいは現状を目くらましようとしてる)連中を批判する一方で、現在の彼自身の故郷との距離が矛盾を孕みつつ率直に語られていて、それがさらに主張に奥行きと深みを生んでいた。

「わしは都会の個人主義に慣れ親しんで、都会の便利さと快楽に耽って、都会で野望を膨らませている典型的な近代人である。
脱藩者であり、売国奴なのだ。」
「もっと本音を言えば、故郷が嫌いなのである。
故郷の親類縁者や 友人関係などの 共同体で通用する「世間体がすべて」の倫理が わしの倫理観に合わない。」
朝日新聞のインタビューで姜尚中が「国家は人に『死ね』と命じるが、郷土は『死ね』と命じない」と言っていたが、馬鹿なことを言っちゃいかん。
戦時中だって、「御国のために立派に死んでこい」と 村を上げて送り出したのは、郷土の世間体の倫理であり、徴兵検査で不合格になった虚弱な男は村民から白い目で見られなければならなかった。
わしの父も兵役につく時は 村民総出で送られたという。
国が召集令状を出して「死ね」と命じただけではない。
ナショナリズムに酔った郷土の者らが 「世間体」という倫理を振りかざして「死ね」と命じたのだ。」
「その郷土の倫理観の残滓は今でもある。
郷土こそが差別の温床ではないか!」


「わしは郷土が嫌いである。わしは東京が好きだ。」
そう語った上で、彼はそれでも、
「共同体によって人格は形成されると思っている。
全国の郷土の衰弱や画一化をよしとするわけにはいかない。」
と、言い切る。

「この液状化した社会状況の中で、無連帯で砂粒の個人となった人々を、どう統制していくかというテクニックとして、新自由主義の政策には、「経済界とアメリカの迷惑にならぬ程度のナショナリズム」が利用されることになる。」
「では朝日やリベラル派は なぜ新自由主義を容認するのか?
そもそも彼らリベラル派は「個人の自由」を信奉し、伝統や慣習を破壊する立場である。


伝統や慣習を守るのは、家族・地域・企業組織・学校などの共同体であり、共同体が生み出す規範は、「個人の自由」を制約する。
それがリベラル派は疎ましく邪魔なのだ。
そして好都合なことに新自由主義は、市場の効率を高めるために共同体を解体する。
リベラル派が「自立した個人」、「自己責任」によって支えられる新自由主義路線、グローバルな市場競争を容認するのは、「個人の自由」を制約する共同体を解体させて 日本の伝統や慣習を消滅させるためである。」
「郷土を切り捨て、市町村を合併して消滅させるのが、今の日本の流れであるのは馬鹿が見てもわかるのに、「子供の郷土愛を育むべきだ」という現政権の図々しさは何事だ?」
「その一方で、格差拡大や、ワーキング・プアは問題だとマスコミは言っているのだから、頭がおかしいのではないか?」
「「郷土なんか滅びろ!」と、政治家もマスコミも国民も、本音を言いなさい!」


本当に、明快に整理された現状認識だと思う。
この現実をどう受け止め、どういう未来を望むかは一人一人が自分の胸に聞きながら考えるべきことだけど、せめてこの現状認識だけは痛みと共に自覚されて欲しいと願う(でも、結局「それだけは無理」なんだろうな...)。
こういった話しになるとすぐに「時代の趨勢だ」と、自分の欲望を隠したまま現実を主張するヤツが出てくるけど、「自立した個人が意識的に作る共同体」という詭弁のヤバさについては、畑中純が寄稿した『まんだら屋の良太』の新作が端的に描いている。
共同体というのは、いかんともしがたく所有欲や独占欲といった業に引きずられて生きる人間が、他者と共同生活を「せざるを得ない」時間の中で重ねてきた「諦めの集積」なので、お互いが理性で自由を主張する共同体なんてのは語義矛盾なのだ。個々の自由や理性の限界に向き合わない人間は、自分の中の利己心や差別を認めないまま恣意的に自分達にとって都合の悪い他者を悪として断罪、制限、排除することを正当化することにばかり血道をあげることになる。

旧作の『日本沈没』の中で、児玉誉士夫を思わせるフィクサーと総理大臣の丹波哲郎が、日本民族の今後を「他国に帰化する人々の場合」「将来新たに建国する準備をする場合」とシミュレーションを続けていき、最後に「このまま何もしない方が...」と、哀歓を湛えた表情を互いに見合わせるシーンがとても印象的だった。
自分は、これこそが自分の感性や習慣を育んだ場所に対する「愛郷心」の核心が露になった場面だと思った。
けれど同時に「時代の趨勢」という形で「すべてに目を瞑り」、「何もしない」という現在の我々の態度の中にこそ、形を変えてこうした日本的な「右に倣え」な諦観が現われているように見える。


自分は心情的に、小林よしのりの主張にほぼ同意するが、正直大企業や政財界がこうした「小国寡民」的な方向を受け入れるとは思えない(国際情勢がそれを許すかどうかなんてことは、自分のような素人にはわからない)し、国民も結局自分がこぼれ落ちるのをおそれるばかりに、却ってなし崩しに現在の趨勢にしがみついていくのだろう。
そうして、故郷が異郷と化し、現在の倫理を支えるものが無くなったとしても、俺達は生きていかなければならない。
生きていく限り、絶望するわけにはいかない。
日本沈没のラスト、世界に散り散りになりながら生き延びていく藤岡弘たちのように、「日本は沈没しても、俺はネバーギブアップ!」でやっていくしかない。
そして、その時何を頼りに生きていくのかは、一人ひとりがそれぞれの現実の中で考えて答えを出すしかない。
けれど、そうして本当に頼るものの無い、視界のきかない状態になった時こそ、参考にできるものはやはり過去の歴史にしかないという気がする。


わしズム』という雑誌は、書店で手に取るのが何となく恥ずかしい。平積みにしてある割に、立ち読みしている人をほとんど見かけない。
政治や社会の話題というのは、個々人の現実での立場に抵触し、揺るがすものだから、なかなか触れるのが憚れるのはむしろ当たり前のことだと思うけれど、それにしても読者層がどういう人なのかが他の所謂論壇誌に比べても特に見えにくい。
同業者と話していても、プラスの意味で話題に上ることがほとんど無い。
俺自身は、現在個別のところで異論はあっても、その姿勢や心情においてほとんど唯一共感、信用ができる個人であり、媒体であるだけに、この現状を悲しく感じていたが、冷静に考えてみると、むしろこれはよいことのような気がする。
一群の読者層が見えないということは、つまりこの雑誌の読者はそれぞれ「ひとりで」その主張に向き合い、一人で考えているということだから。
自分の属する世間やイデオロギーへの帰属意識から離れたところで、自分の現実に、一人静かに向き合っているということだと思うから。
そうした人々が確実に一定数存在していることに、少し勇気付けられる。

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