木村一八vsカバンモチ・COM

bakuhatugoro2006-03-09




また不良の肩持つのかよって言われそうだけど、木村一八の日本刀不法所持の件。
特別ファンってわけじゃないけど、しょうがねえなあ、でもらしいなあって妙な安定感!?を感じる事件。現在住所不定で、車であちこち転々としてたってのも泣かせる。
『いつギラ』以外、目立った代表作がないから、どうしても素行ばかりが目立っちゃうけど、好き嫌い、良い悪いはともかく、どうしようもなくハズレていかざるを得ない人なんだなってのははっきりと伝わるし、こうした「額面」じゃないアウトサイドな「個人」の気配っていうのは、必ず空気として見た目にも表れるはずだから、今こそ役者として使わない手はないと思うんだけどな。
それもVシネとか、ヤクザものとかの、閉じた枠じゃだめ。ハズレ者をうらぶれた場所やしめった役回りで使っても、暗さが際立っちゃうだけだから。今こそテレビで、彼とか真木蔵人とか高岡早紀の元ダンナとか使って、『大激闘 マッドポリス』みたいな、派手に突き抜けた無軌道アクションドラマとかやればいいのにと思う。上に千葉ちゃんとか渡瀬とか蓮司あたりを置いてさ。
哀川翔とか使った、男気を笑いにずらして安心するようなお茶の間サイズのセコい企画にはもう飽き飽きだよ。



逆に、気持ち悪くて滅入っちゃうのが、こういう事件。
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/newsup/news/20060215ddn010040035000c.html



「カバンモチ・COM(ドットコム)」というネーミングが、いかにもというか何というか...
まさに、国が素人に株を勧めてバブルを煽るような、底の抜けた時代を象徴するような事件だ。
だけど、大人も、マスコミも、言論人も、右も左も、とにかく個人の自由や欲望を制限するしがらみや義務は「悪」だし、それを主張するのはカッコ悪いっていうのが思考のタブーとしてもの凄く大きくあるので、誰も根本的な批判が出来ない。その都度細かく犯人探しして、誰かに責任押し付けて安心したがってるだけで(「ホリエモンは違法だが、株バブルは自己責任でOK」みたいな...)。
最近、小林よしのりが「今、(産経新聞系の)保守を自称していた者らと、(朝日新聞系の)リベラルを自認していた者らは、共に仲良くネオリベ新自由主義)に回収されてしまった!」って言ってるけど、本当にそのとおりだと思う。消費個人主義の中に自己完結してる自分に、誰もケチをつけられたくない。それが破られる面倒を被るくらいなら、世の中がじくじく沈んでいく方がマシだと思ってるんだな。
小林さんは、その時勉強している対象に対してクソ真面目なところがあるから、その都度言葉遣いが偏りすぎたり、感情移入が過ぎて過去の日本の全肯定とかが行き過ぎちゃうところはあるけれど、その辺を鵜呑みにせずに見ると、ここのことろをちゃんとタブーなく批判的に掘り下げてるってことでは、現在ほとんど唯一の人じゃないか。 連載されてるのが「SAPIO」なんてアレな雑誌だから手に取りにくいし、『戦争論』以来すっかり色がついちゃってまともに読まれなくなってるのが何とも残念だけど、ここ最近の「ゴーマニズム宣言」は久々に本当に面白いよ。 今出てる号でも「恋愛なんかあっという間に忘れられる一瞬の狂気にすぎん。何十年かかって育て上げる信頼の方が大切なんだ!」って、挑発的かつ至極まっとうなことを言ってるし。



国家にしろ、地域共同体にしろ、家族にしろ、それにまつわる諸々のしがらみや道徳にしろ、もとはと言えば人間、欲望や自由を全開にすれば、関係も成り立たないし弱肉強食の格差が広がりすぎるから、それを抑えるための次善の「必要悪」として生まれたものだろう。
国家や共同体を成り立たせるのがやっとだった時代には、その為の負荷が個人に過度にかかったり、そうした状況に対抗するための「旗印」「方便」として、「自由」や「解放」という言葉が意味を持った時代もあったけど、どちらにしろそれを絶対視し、疑うことが出来なくなると、それは狂信になる。
狂信の外側に出る勇気、そして「反狂信」って立場にも捉われず、それから「当たり前に」距離を取り、批判できるだけの強さとしたたかさが、今は何より必要とされてると思う。



「カバンモチ・COM(ドットコム)」みたいなタガの外れた小ズルいガキや、それをズルズル容認しながら居直って私服を肥やすだらしない大人と、マッドポリスの大激闘。実現したら絶対面白いと思うんだけどなあ。

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