オフ会と恋文


先週末は、久しぶりにショーケンファンの集まりに参加。
プライベートで、こうして大人数で飲むのは本当に久しぶりだったので、半分楽しみ半分緊張といった感じで出かける。
一次会は、かつての(今もあるか?)ロフト付きのワンルームコーポを思わせる、天井に頭をぶつけそうな新宿のもつ鍋屋。
二次会は、しょんべん横丁のBARの六畳くらいの二階で、ちゃぶ台囲んでお通夜のような体勢で呑む。こちらは床に小さな穴が開いていて、そこから飲み物の受け渡しをするのだが、それが秘密基地っぽくてちょっと楽しいような、でも高所恐怖症なので酔っ払って足踏み外す想像が頭を離れなかったりで、何とも微妙な気分。
しかし、面白すぎてここに書けないようなショーケンのエピソードを色々聞けて、久々に何もかもがもうどうでもよくなるような気分で盛り上がれて楽しかった。
最近の自分は、どっちかというとそうした魅力的なバカ野郎を礼賛することの中に、無責任な思考停止や、強いものに寄り添うズルさを感じて、あえて遠ざかるモードだったんだけど、初対面の人が多かったこともあって、なんとなくサービストークしてるうちに自分が盛り上がってきてしまい、結果的に自分のシコッた部分をショーケンに緩めてもらった形になって有りがたかった。


ショーケン神代辰巳コンビ、そして高田純さん脚本による『恋文』という映画がある。神代作品としては生理的逸脱が過ぎない、ちゃんとストーリーに添った比較的オーソドックスな作りで、コアな彼らのファンの間では評価が分かれるところもあるが、自分は、甘さに流れずそれでいてディープな、恋愛映画の傑作だと思う。
ショーケンは実生活では無能力な美術教師。だが、繊細と我侭な生理が溶け合った天性の魅力で、母性本能を鷲掴みにしてしまう厄介なタイプ。女性誌の編集をやっている倍賞美津子との間に小さな息子もいて円満に暮らしているが、ある日突然離婚を言い出す。昔別れた彼女が不運な人生の揚げ句白血病になり、余命いくばくもないことを知って、彼女と結婚してやりたいと言うのだ。
当然、妻はとんでもないと怒るが、こうした甘さと渾然一体になった身勝手にこそ惹かれている彼女は、葛藤の揚げ句それを許し、夫に付き合いきる。話自体は何ともベタというか荒唐無稽なのだが、その中でこういう一見気丈で根が真面目な女性が彼に惹かれ、また夫も最終的に彼女に甘えている構図が何とも言えず生々しく浮かび上がる。


ラスト、かつての恋人の最期を看取った夫は、妻と息子が暮らすマンションのドアの前まで帰って来る。中にいる妻もそれに気付いていて、夫が帰ってくることを望む気持ちを抑えられない。でも、お互いに声をかけることはできない。
そして夫は一人、ドアに背を向け去っていく。

苦味と余韻を感じさせる、綺麗で、しかも味わい深いラストシーンだと思う。
けれど、逆に言えば、美しすぎるゆえにファンタジーだとも言える。
往々にして、男はこのまましれっと帰ってきて、女はずるずると受け入れてしまうのが現実かもしれないし、そうした底の抜けた現実のありようを描いてきたのがクマシロ映画だとも言える。
あるいはこうしたしおらしい、逆に言えば繊細で面倒くさい女性と言うのはあまり神代作品には登場せず、調子に乗っていた男が、女の生命力にいつの間にか置いてきぼりにされるといった展開も多い。登場する連中がみんなスケベなドアホで、それを監督はミもフタもなく突き放しながら愛しんでいるという様子だから、どんなドギツイ話でもサバサバと笑って観ることができる(だからこれはこれで、逆の意味でファンタジーだとも思う)。
そんな神代が、自分の資質とは少し離れたテーマゆえに冷静に、けれどショーケンへのシンパシー(実はこの映画自体、ショーケンをモデルに書かれた連城三紀彦直木賞受賞作を、ショーケン自身が演じるというスゴイ企画)と、抑えてもにじみ出る生理で、しかし夫婦どちらの立場に対してもあくまで等距離で撮りあげたこの映画には、一種独特の不思議な深みと緊張感がある。
大人たちを見つめる彼らの子供の視線も、哀しさを主張しないゆえに、余計に効いている。


締まりすぎたり緩みすぎたり、頑固だったり優柔不断だったり、目の前の相手や空気に感化されすぎて疲れては逆に孤独癖に苛まれたりと、いつまでも不安定な自分のような人間でも、こういう映画を観ると、疲れながらもこんなふうに揺り戻し続ける勇気が、少し出てくる気がする。
いたずらなないものねだりは人を醜くするし、中庸の美しさもまた自己完結の中にはない。