『わにとかげぎす』と、なぜかまたクマシロ


ヤンマガ今週号の古谷実わにとかげぎす」が、面白かった。正直言って、孤独な人が頭の中でぐるぐるしてる系の古谷実の作品は、ちょっと飽きてきたなってところがあって、本作には今までもうひとつノレないできた。縛りが無くなって底が抜けた社会で、タガのはずれた人間が猟奇犯罪に走っているような描写への拘泥も、それはそれとして自分の日々を生きていこうってふうに切り替えるのも大事なことなんじゃないかと、いい加減臭みを感じていた。また、孤独な人間が失敗や落胆を恐れて陥りがちな自己完結を、戒めをこめて揺さぶると同時に希望を見せるといった意味で、本人の思いもよらない角度から好意を寄せる女性を登場させるという最近のパターン。これも、この作品に関してはいくらなんでも現実感が無く、青年誌連載のニーズに応えるという部分もあるのだろうが、これでは安易な「女ドラえもんモノ」と変わらないじゃないかという感想を持っていた。
が、主人公の警備バイトの同僚の斉藤君が登場してから、ちょっと面白くなってきた。
彼は、孤独であることを恥じて悩んでいる主人公と違い、きっぱり娑婆への未練を断ち切って自己完結している。主人公は、自己完結しきれている彼が怖くもあり、ある種の潔さにちょっとした畏怖も感じている。そんな斉藤君が、ある日若い女性に落し物を届ける。すると彼女は、上司から職場の人間関係を盾に取られて男女の関係を迫られており、斉藤君に恋人の振りをして上司との仲を清算するための手伝いをして欲しいと持ちかける。実は彼女は斉藤君に一目惚れしており、これを実際に彼と付き合うきっかけにしたいとも考えている。斉藤君も、実は彼女の可愛らしさに惹かれているが、世捨て人のように生きてきた自分が彼女を幸福にできるはずがないと、あえて突き放すように気の無い素振りを見せる。けれど、彼女の頼み自体は断らず、彼女と上司の間に入るのだが、逆上して開き直った上司に思わず手を出してしまう。ところが彼女は、斉藤君との関係に発展の目が無いと思ったのか、上司の方をかばって斉藤君を「怖いですよ!」と体よく悪者にしてしまう。
半ば無意識に自分を使い分け、いいとこ付きしながらお互いの嘘をスルーできてしまうような彼女たちの在り方に、斉藤君はショックを受ける。

「富岡さん…やっぱオレ達さすがに神経細すぎるかね?ゴボウのようなブットい神経持ってるヤツって…実は状況によって細くもできるのかね?」
「“変わりたい”という変身願望に振り回されてる人いっぱいいるでしょ…老若男女問わず。オレさぁ…どうしてもそういう人苦手で…軽くケーベツとかしてたんだけど…やっぱりあっちの方が本気だね?」
「いや…オレはズルいんだよ…参加していないに等しい」


やはり古谷実という人は、自分の気持ちも他人の気持ちも正確に見つめ、認識せずにはいられない真面目な人なんだなと好感を持った。
けれど、だからと言って人はどんなふうにでも生き方を選べるわけじゃない。また、変わることで得るものもあれば、失うものもある。何を得るために、何を犠牲にしたのか、得ること、失うことに伴うリスクの自覚と責任とを引き受けなければ、変化することの希望も欺瞞になる。この後、どういう方向に展開するにしろ、そこを古谷実がどう描くかを楽しみに待ちたい。今までの作品では、そこにもうひとつ踏み込めないできたという感想を、自分は持っているから。


孤独な人のぐるぐるというのとはまた違うけれど、逆に自分が何かの役割に同化して、なんだか大きくて立派なことを言い過ぎているなと思う時、ふと全部が嘘臭くなり薄ら寒い風が吹くような気がすることがある。だからといって、そういった意味とか役割から逃げたいというのじゃない。むしろ、よりしっかりそれを引き受けていける甲斐性を付けたいと常々思っているのだが、あんまり立派で筋が通った人間ばかりが登場する映画や小説が時に単調に感じられるように、一方でこうした感覚を手放さずにどこかで持ち続けていたいとも思う。
そんな気持ちになった時には、いつも神代辰巳の映画を観たくなる。
以前、神代辰巳は意味を求めて得られない、空虚や侘しさを表現し続けたのではないかといったことを書いたことがあるが、今はちょっと違うような気がしている。ではどうなのかというと…
映画芸術」の神代辰巳追悼号を読み返していて、ちょっと自分ではこれだけ端的な表現が思いつきそうにないと思う程にピンときた、田井肇氏のフレーズを引用したい。

「したいこともなく、愛されたい自分もみつからず、すなわち人を愛することもないままに、ニヒルに孤立するのでもなく、心の隙間をぶつぶつと呪文のようなうめきで、肉体の隙間をただ女の肉体で埋め、どこにいていいのかもわからずに、さりとてここにい続ける確信も持てぬまま、動いてはみるものの、そこから離れることもできずにいる。」
「この主人公は、たいした目的など持ちもせず、いつもどこかに行こうとしている男だ。自転車なんかをギイギイとこぎながら。目的というならば、おそらく人生においても目的など持たないこの男は、にもかかわらず、いつも何か別の、ちがう生き方を求めているようでもなる。しかも、意志ではなく、成りゆきによって。」
「愛し合うということは、すなわち居場所をみつけるということだ。そんな居場所が、自分にあろうはずがない、と神代映画の男たちは、思っているかのようだ。そもそも、自分をほんとうに愛する女なんているはずがない、と。自分というものが嫌いなのだ。自分のつまらなさを誰よりも知っているからこそ、その自分を愛するような人間を信じきれない。
「愛されてる、愛されてない、って、たかが自分じゃないか」」


クマシロはある意味で、壊れてしまった人なのだと思う。
どういう理由でか、前向きな意味とか意義とかが全て心底嘘寒くなり、あるいはそういったものと関わり背負うことが一切嫌になってしまった、一切嫌だという方向が決まってしまい取り返しのつかないところまできてしまった人だと思う。
彼は古谷実の作品のように頭の中でぐるぐるしているだけではなく、成り行きにまかせてさすらい、流れ続ける中で、意味を剥ぎ取った人間のナマの部分を体感し続ける。そのサマにならない格好悪さや哀しみに首まで浸かりながら、それでも残る温かみにこだわり、それを愛しているという感触が確かに伝わってくる。

 
この人物はこういう背景を持っているからこうであるとか、だから別のこういう人物と出会うことでこうなったといった前提を一切剥ぎ取ったところで、多くの神代作品は作られている。
だから、うまくいった作品では、結論先にありきではない、不定形な人間同士が絡み合うなかで、現実が揺れ流れ形作られていく。人間存在そのものの手触りのようなものが直に伝わってくる。
けれど失敗した作品は、背景や複雑な物語が剥ぎ取られている分、ペラペラの紙芝居のようになってしまう。
「映芸」の特集号の中では、神代の姿勢に近代の物語を超えるポストモダン的な姿勢を託して評価する論者も多かった。けれど、自分はこうした人間の手触りだけを頼りにした神代のやり方を絶対視するつもりはないし、それだけが正しいとは思わない。神代は、ただ、たまたまそう生きてしまった、そうした方向に拘っていくことを決めてそっちに振り切れてしまった人であり、それによって失ってしまったものも当然多かったはずだ(更に言えば、軽やかだとか飄々だとかいった表現が当てはまらない、とんでもなく頑なな徹底が神代映画には感じられるし、現実にはカンヌ受賞といった現実での評価の裏づけに拘り続け、また晩年は肺を病んだ体で車椅子に乗り酸素ボンベを付けて映画を撮り続けた姿には、むしろ「妄執」という言葉がふさわしいと思う)。自分自身、神代の映画とは逆の、意味を引き受けた男の戦いとか美学とかいったものに惹かれ、求める気持ちもとても大きい。この触れ幅を、自分は手放すつもりは無い。
クマシロはある意味一方に振り切れてしまった、「向こう側に渡ってしまった人」だと思うけれど、真ん中辺り、それも頭の中だけで細かくバランスを取っている多くの人間の作品にはない部分に確実に触れていて、それに自分は他に代えがたい魅力を感じている。


そして、もしラブ&ピースという言葉が欺瞞なくしっくりと当て嵌まる映画が一本だけあるとすれば、それは、仲間と一緒に夜這いをしておきながら、女が感じていると傷つくような、『赫い髪の女』だと自分は思っている。
『まんだら屋の良太』の新作のラストと同じような意味で。


わにとかげぎす(1) (ヤンマガKCスペシャル)

わにとかげぎす(1) (ヤンマガKCスペシャル)

わにとかげぎす(2) (ヤンマガKCスペシャル)

わにとかげぎす(2) (ヤンマガKCスペシャル)

赫い髪の女 [DVD]

赫い髪の女 [DVD]