今年の私的インプットベストテン


ライター友達とやってた「線引き屋」というグループの恒例行事になっていた、その年の映画や読書のベストテン。
近年、どんどん自分のテーマがはっきりして来たことに比例して、そこと直にリンクしない新作、新刊への興味や思い入れが薄くなり、数年前からジャンルごとに10個選ぶ意味をなさなくなってきていたんだが、今年はランダムに10個選ぶだけでもかなりしんどい。
もはやベストテンというよりは、その時期考えていたことや、興味対象を並べただけというか...


それに、今年は仕事的にかなりキツかった。
楽しかった去年の余勢をかって、準備を重ねてた大ネタ達がなかなか動かず、場つなぎのライスワークに終始した一年となってしまった。
インプットの方も同様、やはりアウトプットをやりきった達成感がないと、飯も美味くないって感じだ。

とにかく、来年はよく食い、よく働く一年にしたいところ。


1.かぶりつき人生 監督・脚本 神代辰巳 
年頭のCS放送で始めて観て、シネマアートンの神代特集にてやっとスクリーンで堪能した、神代辰巳初監督作。
冒頭に流れる「男は男 女は女 みんなはみんな」って曲から、まさに神代映画。
ストーリーも、それに神代監督のその後一貫しているテーマやモチベーションの在り処も、ある意味一番ストレートに出てる映画。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20060207


2.ワダチ 松本零士
例の盗作騒動や、世間のイジメ騒ぎに何となく触発されて読み返した、松本零士のコアがぎゅうぎゅうに詰まった傑作。おいどんが四畳半を追われ、日本人が宇宙へと脱出し、女と情にほだされては捨てられながらサバイバルをしていく話。松本零士が「ついに口にしてしまった」と言う感じの佐渡教授の一言と、同胞を逃がすために捨石となって戦う老人部隊の絵は圧巻。
この頃の松本作品は、とことん逃げずに人の酷薄と向き合い強烈な情念を見せながら、決して等身大を手放さず柔らかい。救いは無くても愛おしく、カッコイイ。
古谷実いましろたかしが好きな人は、だまされたと思って読んでみて。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20061110


3.歌伝説 ちあきなおみ
どこまでも素直で、だからこそ他者に感応し情けが深い。
物凄く濃いのにエゴを感じさせない、懐の広い歌。
昭和歌謡云々を超えて、安心して身を任せられる、信頼できる歌。
特に、後期のニュアンスの深さが素晴らしかった。
レコードの80年代的なアレンジで、それがストレートに伝わらなくなっているのが残念だが、だからこそこのLIVE映像は貴重。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20061106


4.素晴らしき日曜日 黒澤明
「日生のおばちゃん」が、あんなにも可愛らしかったとは!
ともすれば大作では押し付けがましくも、無理やりで偽善的にもなりがちな黒澤明のナイーブな資質が、最も美しい形で結晶したリリカルな小品。
ロケで写りこんだ、敗戦間もない東京の風景は生々しい。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20060611


5.拝啓 天皇陛下様 監督 野村芳太郎 脚本 野村芳太郎 多賀祥介
昭和天皇は本当はピュアな子供のような植物オタクでした(『太陽』)とか、戦前にも親米派のリベラルな人々はいたけど悲しい状況の中で戦い死にました(『硫黄島からの手紙』)とか、そういう好意の形を取った差別に反発もせず、平気で共感している映画ファンとか、心底うんざりするし腹が立つ。
ある時代、状況の中の人間が持つ限界への想像力、そして自分もまたそうした狭さや浅はかさから自由ではないことへの謙虚さ。これを持たない人間が、本当の意味で他者に優しくなれるわけがない。
野蛮で無知蒙昧で、迷惑だけど懐かしい1日本人を、あの「顔」ごと演じきった渥美清と、この映画を作ったスタッフたちの姿勢に、一人でも多くの人間が学ぶことを願ってやまない。


6.高木彬光シリーズ 白昼の死角
CSにて。
男泣き映画ファン、ドラマファン必見の、隠れた大傑作。
狭い意味での「ピカレスク」に戦後アプレゲールの意味が収斂していた原作、映画に対し、東映時代の狂犬演技から成熟へと向かいつつあった渡瀬恒彦主演によるこのドラマは、最終的な破滅を前提とした戦いを最後まで戦い抜く、まさに「男の映画」。そして、裏のテーマは「友情」。岸辺シロー、小倉一郎もキャラクターを出し切りつつ、ジャストにはまっていて素晴らしかった。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20060615


7.右翼と左翼 浅羽通明
「左が左を突き詰めるならば、(中略)戦争と戦力を放棄したくらい能天気な日本人なのだから、もう一丁踏んばって、国家主権と国民と国土をも、挙げて国連、もしくは東アジア共同体へ提供してしまってはどうでしょうか。以後、日本は国連(もしくは東亜共同体)直轄領、国民は生まれながらの国連(もしくは東亜共同体)職員となるわけです。これらはグロテスクな夢想でしょうか。そうだとすれば、そのグロテスクさとは日本の左翼の多くが自らの思想をここまで徹底させることなく、思想の徹底により自らが担うべき代価を真剣に考えることもなく、ただただ加害責任に無自覚な者をつかまえては、彼らより早く自らの悪を自覚している自らを特権化して、倫理的恫喝をする快感に甘んじてきた陰画が、ここに映し出されたものではないでしょうか。」
「もし「右」が「理念」的であろうとするのならば、「右」を突き詰めて、日米安保の現実を否定、武装中立する日本となるべく準備してゆかねばなりますまい。(中略)この方向へ進む場合、アメリカからの武装独立を果たした後、アメリカともEUとも支那とも違う、日本独自の外交と軍事の哲学をも構築する必要があります。それが十二分に魅力的であって初めて、吉田ドクトリン=日米安保の下での平和と安楽、豊かさをあえて危険にさらしてでも、そちらの選択肢を試みようかと国民多数に思わせ得るのですから。しかし、小林よしのり氏以下の構想は、当面のところ、核武装を背景にフランスのド・ゴール主義程度の自立外交を達成しようというもののようです。かつての満州国大東亜共栄圏の壮大さに比べて、これでは何とも地味にすぎないのではないでしょうか。」


8.評伝 赤尾敏 猪野健治
「しかし、十年一日で、関東震災前後からあの運動に入りだして、それからずうっとやり通している。ああいうふうに一筋にやるというのは偉いよ。ただの右翼には真似できないね、ぜったい。(中略)オレは、あのやりかたがいい、というんじゃないけど、たいがいの人が何かやったって途中でみんな放り出す。ああいうふうにしつっこく、ねちっこくやっている熱意は、日本人らしくないだけに、大いに買ってやっていいじゃないかと思っているね。」(今東光『極道辻説法』)
とにかくその場その場で、空気と情緒に流されやすい日本人の中にあって、赤尾敏の清廉な一徹さは本当に特異。
なのに、何故か物凄く懐かしい。
誰もが賢く、聡明に物事を見通せるわけでもないのに(本当は賢い人間だって突き詰めれば同じ)、目端を利かせることに夢中で右往左往ばかりしている昨今だけど、本当は普通の人間、弱い人間だからこそ、何かを引き受けてやり抜くって生き方が救いになるはずなのにな。


9.黄色い封筒 色川武大
色川武大が、夏掘正元との同人誌『薔薇』に発表した処女短編。全集を持っていなくて未読だったが、古書市で『薔薇』を発見して購入。
無職がいたたまれなくて職に就こうとするが宛がなく、親を安心させようと架空出勤。自責の念を誤魔化そうと毎日ひたすら歩き続け、給料の帳尻を合わせるために親の財布から金をくすね、と優柔不断から負債は雪だるま式に膨張。
その後『生家へ』の諸作や『走る少年』の中で、繰り返し書き続けられるモチーフだけれど、処女作だけによりストレートで生々しい。もともと、退役軍人である父親の影響で、漠然と海軍士官学校に進みたいと考えていた、なんて記述も、後の色川のイメージからははみ出していて、凄く気になるし面白い。
そして、この辺の重石のあり方が、昨今のニート文学的なものとの決定的な違いだとも思う。


10.仰げば尊し 笠原和夫
笠原和夫最晩年の未映画化シナリオ。
笠原真喜子さんのお話では、自腹で映画化権を買い取り、一度企画が流れた後も自身で監督するプランを持っていたとのこと。
原日本的なものと、近代の風の幸福な出会い方、言い方を変えれば戦後にあった原初的な希望にもう一度立ち返るという意図が、この脚本の底流に流れている気がする。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20060604


あと、ベストテンを超えて、昨年来一番はまってるのがちばあきおの諸作。
ヒューマニズムの輝きと、その限界の両方を見つめる冷静さと、低い視線からの人間への愛情の共存がすばらしい。
『キャプテン』『プレイボール』のガンバリズムが苦手な人にこそ、『半ちゃん』や『ふしぎトーボくん』を読ませたい。
そして、その後にもう一度『キャプテン』を読んで欲しい。


ちばあきおをきっかけに、戦後民主主義と野球少年に興味を惹かれた関係で出会った米沢嘉博『戦後野球マンガ史』も面白かった。
インテリ層には手塚治虫中心に語られがちな少年マンガのもう1つのメインストリーム、イガグリ君→熱血格闘マンガ→梶原一騎と続くドメスティックな根性モノ、そして『バット君』→寺田ヒロオちばてつやちばあきお兄弟と続く、物語よりも情緒と心理を描く路線。これが合流したのが『あしたのジョー』、と言う具合に俯瞰されると、自分の好みまですっきり腑に落ちる。
「そしてスポーツマンガは、そんなアメリカ的なものと日本的なものとの間に、常に揺れ動いていたジャンルでもあるのだ。それは戦後の日本人の大半が抱え込んだアンビバレンツとも重なっていた。」(後書き)
このテーマの更なる展開に期待したかっただけに、そして、こうした実感が、マンガやマンガ論の書き手読み手双方から失われつつあるだけに、米澤氏の急逝が本当に残念。


とにかく当世をあまねく覆ってる、刹那的でちっちゃい、ずるずるなエゴイズムみたいなものに心底飽き飽きして、実直な人間の強さに惹かれているここ数年だけど、その価値を力説し、紹介しようとするほどだんだんそういう自分自身はこんな立派な人間じゃないんだよな、という恥ずかしさが募ってきているのも確か。
来年は、人間の根っこに抜きがたくあるエゴや卑小さを振り返る方に、多少揺れ戻しも必要かも...


ではみなさん、よいお年を。