愛すべきマンネリズム


岸田今日子青島幸男実相寺昭雄、そして今度はJBか...
今年も暮れになって、大物の急逝が続きますな。
丹波も、上等兵殿もそうだけど、物心つくまえから空気のようになじみだった人たちが、だんだん、ぽつぽつと消えていくのは寂しいものだ。
でもその中で、岸田今日子さんに関しては、不思議と(いや、本当は不思議じゃなく、ストンと腑に落ちてる)あまり悲しくなくない。
岸田さんの病気のことは一般にはまったく知らされていなかったし、闘病やつれした姿を見せられることも無かった。
何より、自由にのびのびと人生を楽しんで、いつのまにかふわっといなくなったという印象なので、変な言い方だけど、気持ちよく納得できるのだ。
この世の未練を感じさせない清清しさというのか。
勿論、長く生きている以上、岸田さんにも色々あったに違いないのだけれど、こうした去り方、印象の残し方が、何より大人物だなァと思う。


黒鉄ヒロシの『色いろ花骨牌』というエッセイ集を読んでいたら、直木賞を受賞して人気絶頂の頃の向田邦子宛に、色川武大からの「大楽の形が続いているから」「万事にお気をつけください」という伝言をあずかったのだが、彼女の多忙のために果たせず、その直後に出かけた旅行中の飛行機事故で亡くなってしまった、というエピソードが紹介されていた。
黒鉄氏自身「オカルト話のように取らないでほしい」と断っているし、これは何よりもバランスに気を使う色川さんの、形のない「楽」に翻弄されないように、「苦」に向き合い取り込んでいくことを強く意識する人生観から出たもので、決して人の運命を先取りするようなインチキ占い的な言葉ではない。
けれども、というかむしろ、「苦楽は等分」という認識によって、健気にバランスを取りながら生きている人間達の営為を、根こそぎ無にしてしまうのが、運命とか神様とかってやつの怖さだと思う。
最近、自分より若い人、それも静かに暮らしている善意の人たちの死や病の報せが続き、「どうしてこの人が!?」と、こうした思いを強くしている。


よく、「あなたの生命があと〜日だとしたら、何をしますか?」といった質問を見かけるけれど、自分は月並みだが「家族や親しい人たちと、いつものように、普通に過ごす」と答えたい。
いや、実際は恐怖と未練で(その時、そうした良い家族や友人を得られているかどうかってところも疑わしい...)、とてもそんな平常心ではいられないと思うから、そうした心境に憧れると言った方が正確だと思う。
これもよく、大病を患った文化人なんかが、「死を見つめて生きる」なんてことをしかめつらしく語っているのを見かけるけれど、こうした吹聴の仕方自体にナルシスティックな傲慢さのようなものを感じて、「大袈裟だな...」と反発を感じることが多い。
大島弓子がどこかで「愛すべきマンネリズム」とか「理解なき和解の日々」って書いていたけれど、前者のような、自分の意味を疑わず高く見積もった言葉よりも、諦念と愛おしさが溶け合った平穏の方を、自分も取りたい(取れたらなァ...)と思う。元々マンネリズムに耐えられなくて逃げ出した揚げ句に、毎日が自分との戦いのようになっては疲れ果て...と、大袈裟になったり感情的にリキみかえったりを繰り返している自分のような人間が言うのは、天に唾するようなものだし、或いは彼らこそ、非日常的な日常(マンネリ)を、ぶっ壊れながらも生き抜くタフさと覚悟の持ち主なのかもしれないが。


グーグーだって猫である2』に収録されている、「人生の大晦日」という大島さんの闘病記の、いつもどおりに淡々とした筆致には、どこか岸田今日子さんの人生に通じるダンディズムのようなものを感じる。

グーグーだって猫である〈2〉

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大島弓子選集 (第13巻)  ダイエット

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