中上健次と松田優作


中上健次は、自分にとって長い間位置づけの難しい作家だった。
小説、特に初期から中期にかけてのものには、好きとか嫌いを超えて、とにかく圧倒される。
センテンスの息が極端に長いかと思えば、単語ごとに句点を打ち、小刻みに呼吸しているようなところもある。
単語の選び方がこれ見よがしに大袈裟だったり、そのひとつひとつはベタで不器用なようでいて、大袈裟さや不器用さも含めて「これしかない!」と思えるような、内容と文体が一体になった、塊のような存在感。
何かをまっすぐに伝えることが出来ず、その言葉にならない何かの周りを描写がぐるぐる回っているような小説を書かずにいられない、桎梏の重さと複雑さ。
中上健次より好きな作家や、自分にしっくりくる作家は他に何人もいるが、自分が読んだ中で一番「凄い」と感じた小説は、迷うことなく「枯木灘」だと断言できる。


ただ、同時にエッセイや対談などで読む中上は、俺にはかなりかっこ悪い。
流行の現代思想サブカルチャーを狂ったように勉強して、その構図に自分を無理やり当てはめる。
若手の作家との対談では、無理に相手の理解者として振舞おうとして擦り寄り、なんだかダサい教師みたいになっている。
流行のジャーゴンだらけの会話や文章は、とにかく地に足が付いていない感じで、見ていられないと思うことも多かった。
こういうことは、自分の好きな他の作家ではほとんどない。


けれど、今それを読み返すと、彼の、自分以外のもの、自分を相対化するものへの好奇心、そしてそれを支える体力に圧倒される。
その都度不自然なほど対象に同化しようとせずには居られない、自分の資質に対する愛憎の激しさと、桎梏の在り方の複雑さから来ていたのだと思い至る。
神経症的に小さく尖って自己撞着している、現在の我々とはまったく逆の資質と、スケールを持った作家だったんだとわかる。


そして自分が、中上健次に最も近い資質を持った表現者だと感じるのが、松田優作だ。
桎梏の深さと複雑さゆえに、自分の資質から遠ざかり、変化し続けずにはいられない「不自然さ」(あの本人以外、いや、本人にもおそらく意味不明な主人公を演じきった、『野獣死すべし』に象徴的なように)において、二人は瓜二つだ。
荒神』の主人公ゴロを、「ゴロは俺なんだよ」と言った松田優作に、秋幸を演じて欲しかったと心から思う。


今日のETV特集『蘇る 松田優作』は、初夏に放映された「知るを楽しむ」の再編集だったけれど、クライマックスに『荒神』のエピソードを持って来たことを含めて、どうしてもこの文章を書いておきたくなるくらいに見ごたえがあった。
ただ、優作を語るリリー・フランキー大槻ケンヂは、中上や優作の言葉にならない「桎梏」の部分をまったく持たず、欠片も理解していない、対極のタイプの人間だとはっきり思った。
そんな彼らにも確実なインパクトを残した優作の表現の強さは素晴らしいし、それは広く知られて欲しいと思うが、リリー・フランキー氏は、もうあまり優作について語らない方がいい、語らないで欲しいとも思った。
うるさい言い方かもしれないが、この部分を抜いた形での優作がこれ以上広がっても意味が無いと俺は思う。


蛇淫 (講談社文芸文庫)

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