いじめと『ワダチ』

bakuhatugoro2006-11-10



いじめ自殺事件、というよりも政府のいじめ対策についてのニュースを見ていると、何とも嫌〜な気持ちになる。
事件の後で「いじめは無かった」と主張する先生はスゴイなと思ったけど、今言われている対策のやり方だと、ますますみんな「ないこと」にしなければならなくなり、いじめは陰湿に地下にもぐってしまうだけだと思うんだが。
むしろ、「いじめはどこにでもある」「いじめのない社会はない」という認識を当たり前に口にできる空気になることが解決の第一歩だと思うんだけど、本当は当事者以外誰もいじめ自体を解決したいなんて思っていないんだから仕方がない。


生徒と同僚の先生と父兄がそれぞれ先生を評価する、なんてことに本当になったら、すべてが「多数決」になってしまって、ますます「人間関係」が全てに優先してはびこるようになるので、マイナーな先生が今よりさらに学校に居づらくなってしまう。
だいたい評価の時にうまく人望を集める側が、そのままいじめの当事者でもあるんだという当たり前の認識をスルーしてる限りどうにもならない。
いじめなんて、正面から解決することはほとんど不可能なんだから(それは、マイナーがメジャーに正面戦を挑むようなものだから)、それはそれで仕方ないが、それに捉われず、どう自分の途を探り、育てていけるかってところが一番大事なのであって、その為にはRCの「ぼくの好きな先生」みたいな人生の先輩の存在が何よりも重要だと思うんだけど、今言われている対策っていうのはそういう人をますます学校からはじき出すだけだと思う。
そこのところを分からずに、大人が子供の世界に介入すると、大人の都合と力関係が変な形で子供社会に反映されて、ますます嫌らしいことになるだけなんだけどな。


子供が自分の行きたい学校を自由に選べるようにするというのも一見聞こえは良いけど、益々変な格差を助長することにしかならなそうな気がする。
どんなに小さな社会に分かれたとしても、どんな場所にだって権力もいじめも必ずある。
大事なのは、いろんな人間が居る場所で、そしてみんながお互い空気を読みあいすぎて息苦しいことになりがちなこの日本の社会の中で、どう染まらず潰れず生きていく力を身につけるかってことだと思うから。


学校に期待できないとなると、やはり外の人間が「ぼくの好きな先生」をやるしかない。
サブカルチャーもマイナーなサークルに対してじゃなく、彼ら一人一人の目につく場所に、発信していく方法を何とか考えていかなければね。


で、唐突だけど、そうした若い友人達に手にとって欲しいと願ってやまないのが、松本零士の『ワダチ』。
男おいどん』に続いて全盛期の少年マガジンに連載された、内容的にも松本零士の最高傑作の一つと言って間違いない一作と思うんだけど、タイトルのわかりにくさもあってか意外にあまり読まれていない。先日、同世代のそれなりにマンガに通じてるはずの友人に話を振ったら、白土三平の『ワタリ』とごっちゃになって忍者マンガだと思い込んでいたらしい。
本当の『ワダチ』は、孤独なおいどんが唯一帰る場所である四畳半がある日消えてしまったら? という発想からはじまる、松本零士版『日本沈没』のような話。
不景気だけど飢えるほどじゃなく、物はそれなりに溢れているが将来は漠然と不安、といった感じの現在の空気にも凄くハマると思う。
貧乏で毎日ロクなことがなく、女達は次々に目の前を通り過ぎてしまっても、とりあえず明日の為に今日も寝るって具合に、ダラダラ逞しくバカに生きていく他の四畳半ものと比べると、おそらく内田勝ら編集部の意向も大きかったと思うが、よりストレートにテーマが語られ、松本マンガにはめずらしく(!?)ストーリーもスリリングに展開する。
とにかく、直に読んでショックを感じて欲しいのであまり内容を説明したくないんだけど、俺の読後感は根本敬の『タケオの世界』といましろたかし・カリブマーレイコンビの『ハードコア』を足して、より強烈にした感じ。
デビルマン』や『ザ・ムーン』のような、当時のSFマンガにも通じるところがあるけど、松本零士独特の視線の低さで、より身近なインパクトがある。
古谷実あたりの若い読者にも是非手にとって見て欲しい。


ワダチ (小学館文庫)

ワダチ (小学館文庫)