テロも絶望も踏み超えて生き抜く男の物語 松本零士『ワダチ』評お蔵出し

bakuhatugoro2008-06-18


秋葉原の事件の衝撃覚めやらぬ中、奇しくも宮崎勤の死刑が執行された。
あの事件があった20年前は、子供のものだと思われていたマンガやアニメを、いい歳をした大人になっても偏愛し続けるオタク的な趣味が、まだ一般的なものではなかったり、それ以前に、内向的な性質を極端に蔑視しがちな80年代だったこともあって、報道のされ方も随分乱暴で大味だったし、「あの部屋」に心当たりのある人間は必要以上に意識せざるを得ないような空気になっていた。
その後のオウムの事件にしてもそうだけれど、実際の犯人達のパーソナリティを良く見ると、自分とは随分距離があり、共感できるところがほとんど無いのに(本当にあの上祐とか、オウムの幹部連中なんてヘドが出るくらい大嫌いだった。しかし、今回色々コメントしてるような連中含めて、今では若手のインテリ連中の方が、俺には上祐たちにダブって見える)、重なっているわずかな一点を過剰に意識して怯えたり、子供っぽい趣味や内気さを克服して、ちゃんとした大人にならなければならないと、後から見ればそれはそれでちょっと非現実的なリキみ方をしたりしていた(勿論、それは世の中の趨勢も、自分自身の状況も大きく変わった、今だからこそ言えることでもあるんだけど)。


件のリーマンの友人との会話の中でもお互い同感し合ったのだけれど、今回の事件で、犯人がわざわざ秋葉原まで行って事を起こしてることが、そんな自分たちにはよくわからないし、だから気になるところだったりする。調子こいてるヤツらがムカつくんなら、表参道ヒルズとか、経団連の会長とかをターゲットにすりゃいいじゃないかと、単純に思ってしまうのだ。ちょっと前に、秋葉原で「非モテ解放デモ」みたいなのが話題になってたけど、あれもどうして青山とか渋谷あたりでやらないんだろう、非モテ非モテに訴えたって、トカゲが自分の尻尾食ってるようなもんじゃん?って、不思議だった。
おそらく、彼らにとっては、そういう実際うまくいってるヤツとか、モテてる連中って言うのは、まったく自分とは関係のない「埒外」なんだろうなって思う。
似たようなヤツラがある程度住み分けて、息のしやすい場所を獲得することは良いことだとも思うんだけど、そこで固まってしまった時に、外をまったく意識しなくなってしまう感じにはどうしても抵抗がある。その場が孕む排他性も含めて。
今回の犯人の境遇は、同情すべきものだと思うと同時に、報道でポツポツ聞こえてくる自己正当化的な饒舌には、ちょっとタガの外れたものを感じる。
みんなで「便利」や「安心」を求めた結果、それでも最後に取り残された部分がだらしなく放置され、暴発してしまったような気配を感じる。
孤独を最後の最後に支える、美意識と裏表の「恥」の意識や、男の生き方の「形」が、無くなってしまっていると思う。


というわけで、以前ここに上げたペキンパーについての小文と同じ時に書いた、松本零士『ワダチ』のレビューをお蔵だしします。これは、現在の若き煮つまり野郎たちに、是非とも一度は読んでみて欲しい一作。
俺も、今後はボツになることなく、届くべきところに届かせるだけの螺旋力を鍛えるため、更なる精進を重ねていく所存であります。

『ワダチ』松本零士

若いアニメファンにとっては今更って話題かもしれないけれど、『天元突破グレンラガン』の再放送にハマりまくっている。特に、時代が変わり、主人公たちの立場が分かれていく第三部の展開が良い。指導者としての辛い決断を引き受けて、最大公約数の人間を守ろうとするロシウも健気だし、彼のことを否定せず、あくまで在野の愚連隊として零れ落ちるものを救おうとするキタン達も良い。何だか誰もが自分の権利と被害者意識を主張するあまり、結果的にギスギスと厭世的な気分を助長するような循環を感じることが多い昨今、先のことは分からないが「とにかく自分のできることをやり抜くだけだ」と敢えて宣言する、『七人の侍』や『ワイルドバンチ』さえ髣髴とさせるような作品が、リアルタイムで発信されていることが凄く嬉しい。
そこで、『グレンラガン』の武士道的スピリットの大きな源流の一つである、松本零士作品から、今回は『ワダチ』を紹介したい。
主人公の山本ワダチは、(数々の松本「四畳半もの」と同様)オンボロ下宿館の家具も布団もない四畳半で一人暮らしているガニマタ、短足、チビでメガネでブサイクな浪人生。どこへ行っても軽んじられ、出逢う女は皆目の前を通り過ぎ、見てくれや稼ぎの良い男のもとへ去っていく。
でも、彼は松本マンガの主人公だから、痩せても枯れても自分を哀れんだり、自暴自棄になったりはしない。たとえ現在が最悪でも、それは人生上のほんの一点に過ぎず、そのうち必ず自分で何とかすると固く誓い、信じている。
ところが、物語は途中で意外な方向に展開していく。下宿館の近所の建物が次々に取り壊され、街から人影が消えていく。実は日本は石油の輸入をストップされ、政府は美男美女や優秀な人間だけで、宇宙の彼方の新天地への脱出を計画していたのだ。
しかし、計画の指揮を取っていた佐渡教授は、何故かワダチを気に入り、一緒に連れて行ってやろうとする。
やがて、太平洋戦争の時のように、日本人が自暴自棄になって戦争を仕掛けてくることを警戒した国連(アメリカ)軍は、日本に上陸、占領し、宇宙への脱出基地を攻撃してくる。
しかし、密かに地球破壊用の爆弾を準備していた佐渡教授は、逆に全人類の消滅を宣言する。彼は、ワダチ同様のガニマタ短足のチビメガネ、おまけにハゲで、これまでの人生で一度も女に愛されず、海外の学会では黄色いサル扱いを受けてきたのだった。
「わしはこの日のために 今日まで歯を食いしばって生きてきたのだ」
しかし計画は、結局他の日本人達によって阻まれ、佐渡教授は自決する。
けれどワダチも、作者の松本零士も、このほとんどオウム真理教のような佐渡教授の行動を否定しない。怒りやくやしさや復讐心といった人間の負の感情を、このマンガは否定し、去勢してしまおうとはしない。
「いけんことかもしれんけど おいどんは…ほんとは…あんたに地球をぶっとばさせたかったんよ…やらせてあげたかったんよ したり顔しとるにくたらしいやつらを みんな殺したら どんなに気持ちええと思ったかもしれんもんね」
このマンガで描かれる、金持ちや女やアメリカといったものへの負の感情は、一面的で後ろ向きとも言えるかもしれないが、確かにある人々の本心の一部であり、また現実の一面でもある。
それを一切隠さず、あられもなく正直に描くこのマンガには、不思議な風通しの良さと、おおらかさがある。
『ワダチ』が発表された70年代中庸は、日本はオイルショックによる終末的な気分に覆われていた。『日本沈没』や「ノストラダムスの大予言」が流行り、『デビルマン』や『ザ・ムーン』といった「人類皆殺しマンガ」も登場した。けれどその中で、『ワダチ』を際立たせているもう一つの美点は、どこまでも低く、等身大で柔軟な主人公と作者の視点だ。だから、彼の無為無力もまた、みもふたもなく描かれてしまう。
佐渡教授の行動をはじめ、大状況の前で、ワダチはいつもただ翻弄されるばかりで、どうすることもできなかったし、新天地に降り立ち「人を喰ってでも生きのびるんど〜」「人喰い人種の大酋長になって帰ってくるど〜」と、男らしく雄たけびをあげても、結局狩られて喰われそうになるのはワダチの方。彼は終始、多くの読者達同様、平凡で無力なままだが、懲りずに明日を信じ続け、何度裏切られ続けても「そんなものさ」と女に惚れる。
物語の最後、タイムマシンを発見したワダチは、上京し下宿館で暮らしはじめてから現在に至る、自分の過去の轍を見る。ロクなことが無かった人生なのに、過去の彼はいつも健気で、見ていて無性に愛おしい。そして、涙を浮かべているワダチを見ていると、こっちまで「人間っていいな!」って気持ちになってくる。せめて、こんな可愛気のある人間でいられたらなんて、柄にもなく殊勝なことを思ったりする。
世に溢れる尤もらしい楽観的な言葉が何もかも嘘寒く、誰のことも愛せなくなりそうな時、是非本書を手にとってみて欲しい。

おまけ 「受け継がれる意志 人の夢」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1028230