「光クラブ」のドラマ


ザ!世界仰天ニュース 緊急特別版 落ちた偶像 光クラブ事件」を観る。
バラエティー枠内でのやっつけ企画だろうとあまり期待せずに観たら、結構気合いが入った作りで楽しめた。
実話再現ものだから当たり前と言えば当たり前だけれど、ピカレスクロマンという方向がはっきりしている『白昼の死角』http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20060615に比べると、山崎を等身大の人物として描こうとしている。元々きまじめで線の細い人間が、戦中の極端な建て前社会と、それが根こそぎひっくり返る戦後の混乱によって、反動で極端な合理主義に走ったというトーン。「女は道具に過ぎない」とうそぶく山崎の、一方で女に騙されていたりする不器用さが、共感できる人間らしさとしてクローズアップされていたり。
フラットな視線で、時代に翻弄された等身大の山崎を描写するかの姿勢が今風だけれど、言い方を変えれば、作り手の立場がよく分からない。
ラスト近く、自殺を口にする山崎に対して、平田満演じる新聞記者が吐くセリフ、
「君はいつのまにか戦争のせいだとか、世の中が悪いとかいう姿勢になったみたいだが、甘ったれるんじゃない。みんな地べたをはいずりながら生きてるんだ」
これがとりあえず作り手の姿勢を代弁するものなのだろうけれど、実のところこれこそが無基準に生き延びていく自分たちを肯定、合理化する戦後派、アプレゲールの思想そのものじゃなかったか。
自分の合理主義に殉じて死ぬような、偏屈インテリ青年っぽい固さというのは、むしろ山崎個人の個性に属するものだろう。
だからこそ『白昼の死角』では、鶴岡という架空のキャラクターを設定し、こうした山崎の個人的な弱さを超えて、戦後的なありようをとことん鶴岡に引き受けさせ、全うさせて見せた。
あるいは、作り手がこうした立場をまったく否定していたとしてもそれはそれで構わないが、単に状況の被害者として描いた上で哀れみつつ、そのことによって自己肯定、という以上のものがまったく感じられない。
やりすぎた山崎は悪かったが、自分たちくらいなら調度良いということか?
「現在はこの時代に良く似ていると言われる。私たちはどこか山崎に似ていないだろうか?」という取ってつけたようなナレーションが締めだったが、むしろ堀江や村上に対する現在の世間の最大公約数の受け取り方が、そのまま(無意識に)反映されたようなドラマだと思った。

私は偽悪者

私は偽悪者