まったくの偶然なのだろうけども、

イムリーなことに夏目房之介さんがご自身のblogで、まんが夜話の「ボーダー」の回に関連して、「ボーダー」の根底にある姿勢を「ラディカリズムの脅迫」であると端的にまとめている。
http://www.ringolab.com/note/natsume/


これはそのまま今の町山さんの姿勢にも当てはまると思う。


夏目さんは「ボーダー」を脅迫的なプロパガンタではなく、漫画としての面白さを備えた優れた作品だと留保もしているけれど、ストーリーテリングや人物像形の魅力それ自体とはまた別に(いや、それ自体とも有機的に関係した形で)「ボーダー」はある思想の表明であり、プロパガンタでもあると思う。


夏目さんはラディカリズムの脅迫を解体する方向を自ら選んだと表明されていて、それが時代全体の気分を支配していた時代の渦中でそのまずさを体感してきた彼がそういう立場をとられるのは無理のないことだと僕は思う。


けれど、どんなに正しさを解体したとしても、人間からそれを求める欲求や衝動自体が消えることはないとも、また強く思う。


権力、反権力。豊かさ、貧しさ。という分かりやすい対立が無くなっても、個人個人の間での落差や差別願望は消えることはない。むしろ対立が複雑になって、万人が万人の敵であり、それはあなたの問題でしょう、とお互いが権利を手にすることを見張りあい、また責任を逃れながら一抜けする下心を隠しているような状態で、それはより不健康にくぐもった形で、無意識に放置されていると思う。


夏目さんたちが行った正しさの解体というのは、ある正しさが脅迫的に信じられ、その問題点への疑いを考え、口にすることが憚られた時代には、確かに意味があったと思う。
が、「正しさ」の怖さの側面だけにこだわるあまりに、別の正しさを積極的に求め模索することが根本的にタブーになっているから、根本的に状況に受身であらざるをえない。


その結果どうなったか。
要は、「正しさはほどほどがいいのだ」というふうに、みんながみんなを横目で気にしながら、丁度よさにはまろうとする姿勢を批判し、相対化することができなくなってしまった。
インテリたちは正しさを打ち出すとボロが出て足元をすくわれるので、現実に起こっていることに対して、あれもいい、これもいい、と許容度を競い合うことしかしなくなり、それだけがリベラルさの証とされるようになった。
そうした無秩序や我侭、倫理の無さによって、信じるものを失い、ただ押し込められるものが立つ瀬を失う状況をそれは作り出してしまっていると思う。


つまり、リベラルというのは、弱肉強食、資本主義をただ肯定、追認する思想(要するに「金持ち喧嘩せず」ってこと)になってしまっていると思う。
それも全く無自覚に。


この項
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040712
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040802
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040804
に続きます。