死者の身代わりの世代

bakuhatugoro2005-07-11



id:border68さんよりトラックバックをいただいたので、mixiの日記より転載します。


今、ちくま学芸文庫から出た吉田満の『戦艦大和と戦後』(『tone』で魚雷氏が取り上げた古山高麗雄さんとの対話『書いても書いても書いても...』も収録されています)を読んでるんですが、戦争に行った世代というのは単に「敗戦」というカセがはまっているというだけでなく、現に目の前で家族や隣人を失っている。戦争末期の悲惨と理不尽を身をもって体験しているので、「とにかく戦前は悪」という戦後的なお題目にも、心情的に声高には反論できない(そうした苦しさは、先日の『朝生』見てても如実に感じました。その中で、とにかく「戦争は悪だった」という言質を取って、彼らの体験を安直に結論付けようとする若い女性に対して「平和などという雑駁な言葉ではなくて」と、毅然として制した池部良は格好よかった)。
だから、まずひたすら「真摯に反省しなければ」という思いが、思考のカセとしてしっかりあって、しかし実際大局的に見れば、戦前の状況において日本の取るべき道が他にたやすく見出せたわけじゃない(例えば、そのことの善悪以前に、戦勝国の国民が、彼らのような反省と自責の持ち方をすることがあるだろうか...)。それでも尚、「責任」を考え続けざるをえない、彼らが背負わされた屈折について、もっとちゃんと掘り下げ考えたかったなと後悔が残ってます。
要すれば、日本人には戦中も戦後も現在も、その場の多数への適応以外に超越的な「基準」というのはなくて、けれどたまたま戦前、戦中を生きた(真摯な)人間は、かつても今も基準を持たないままに「空気の中にいたこと」を反省し、罰せられねばならず、戦後の人間は自分の基準の無さはそのままに、戦前的なものを叩くこと(最近はまたそれが裏がえったりもしているけれど)を、安易に自己保証にして現在の空気に馴れ合っている。
『tone』の論考http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20050625では、笠原さんの視点の鮮烈さの方を強調する形でまとめたけれど、更に掘り下げる機会が持てればなと思っています。