ある程度予想してたことだけれど


町山ブログ、本当に残念なことに、ツマラナイとこに落着してきちゃったなと思う。
トレイとマットが『チーム・アメリカ』でリベラル派芸能人を批判しているのは、ムーアへの私怨とでも言いたげなエントリhttp://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20041013にいたっては、彼が折に触れて批判する陰謀史観の論法そのものじゃないか。
せいぜい良心的に取っても、町山氏の「俺マンダラ」を合理化するための苦しい悪あがきとしか映らない。


映画人、表現者としての2人、また愛すべき個性の持ち主としての二人に対する評価と、彼らの政治見識についての評価はまったく別であるべきだし、政治見識を異にする二人を、町山さんが映画人として評価し、人として愛すことは、なんらおかしなことじゃない。
問題なのは、現在の町山さんの混乱は、政治見識を共有するヤツ=イイヤツ=仲間という彼の中の図式の乱れに対するものだということだ。
これは、かつての岡田斗司夫氏のムーア批判へのしおしおな態度と、まったく同根だろう。
参照
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040802
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040804
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040806
だから、町山さんは、互いの立場の違いを、なんとしてもはっきりさせず、うやむやに相対化してしまいたがっているように見える。
そして、こうした姿勢は、自分の身内以外に対するアンフェアな態度を、無自覚なまま正当化するようなズルい姿勢に繋がってるぞ、と思う。


ここでも俺が問題にしたいのは、それぞれが根本のところで自分が何に拠り、何を信じて生きているかということだ。
俺自身の立場を言えば、トレイとマットの評価や作品への愛着とは別に、彼らの価値相対主義の底にあるニヒリズムを、最終的に拒否したいと思う。
また、ある意味センシティブな彼らがニヒリズムにたどり着かざるをえない思考の根である、彼らが依拠するアメリカの民主主義、リベラリズムの万能を疑う。
ムーアの社会改良主義も、2人のニヒリズムも、対立しているようで、実は根は同じところにあると思う。
そして町山さんには価値相対主義、そしてその苗床である、人を最終的に利己主義へと閉じ込めてしまう構造を持つ、民主主義的思考への疑いが、根本のところで決定的に欠けていると思う。
それは町山さんが、弱者に感情移入する人情家であり、ボンクラやプアホワイトの生理を掴んだ優れた表現者であることへの敬意とは別に、今やはっきりとある。


アメリカの大統領がブッシュだろうがケリーだろうが、市場万能と階級格差拡大への方向は変わるところがないし、アメリカが世界帝国志向を投げ出せば、世界が平和になるとは到底思えない。そうした人間の難しさを、自分の保身や欲得、利害も含めて引き受け、噛み締めること、その中で何かを選び、手を汚す葛藤や痛みを前提としなければ、公正なリテラシーなんて生まれようがないし、保守を悪者にして叩くことで結束なんて論法は、そういう意味ではまったく逆効果としか思えない。
すくなくとも、表現者がやるべき仕事は、性急な政治的立場への加担なんかより、その中での本当の自分たちのエゴや心の動きを、流さず記録し、表現することだと俺は思う。