素晴らしき日曜日(47年東宝 監督 黒澤明)


正直、構えの大きさとパワーに圧倒されこそすれ、決して黒澤映画のファンとは言えない。
むしろ、「どうだ!」と言わんばかりの大仰な演出に、これ見よがしな高飛車さを感じて、苦手だったと言っていい。
ストーリーも、その多くは映画が最大公約数にとっての娯楽だった時代のものとは言え、あからさまな公式見解(あるいはそれをそのまま裏返した逆説)を力づくで押し切られているようで、自分は入り込めないし、むしろ逃げだしたくなることが多い。
けれどこの映画に限っては、そうした黒澤監督のストレートな性質、作風が、丁寧な視線、描写に結びついて、まったく違和感も反発も感じなかった。
どころか、ずっと映画に同化して、いじらしい主人公達に感情移入しっぱなしだった。



敗戦直後の絶対的な貧困の中、生きることに必死で卑屈にすさみがちな気持ちを、必死に鼓舞して明るく振舞おうとする恋人たち。
そうした、絶対的に健気な存在に対してそのまま感情移入するというのは、あまりにも距離感をわきまえない不遜じゃないかとも思う。
けれど、「ついていない」ちっぽけな彼らの日常の細やかな描写の積み重ねは、今現在を生きる自分の「誰にも気にされることの無い」ちっぽけさともまっすぐに響きあう。敗戦後の貧困による荒みに限らず、「誰だって自分が可愛いもの」「自業自得」という現在の気分の中、誰にも気にされず無力な自分に唇をかみ締めているだろう、誰にでもある立つ瀬ない、やるせない瞬間に思い当たる。
そして、そうした隣人達を、何とか支えたい、応援したいという気持ちを思い出させる。
それは、彼らの小さな現実にとことん付き合い、淡々と彼らに寄り添いつつ退屈させない、動きと時間の緩急が絶妙な演出があってこそだ。
ずっと気丈に明るくふるまってきた中北千枝子が、恋人との行き違いに遂に感極まってずぶ濡れで背中を振るわせるシーン、そしてそこから一転、それまで不甲斐ない自分への失望から彼女にあたり続けていた沼崎勲が、懸命に笑いかけ、夢を語ろうとする様子には、恥ずかしながら自分も落涙してしまった。
だからラスト、音楽堂で中北千枝子が観客に向け「お願いです、わたしたちに拍手をください」と訴える例の演出にも、まったくシラけることはなかった。むしろ、時々声を震わせながら訴える彼女の名演に引き込まれて、また胸に込み上げるものを感じた。



自他の卑小さも汚さも、それぞれが生きていくことの「いじらしさ」の一側面として受け入れられる、優しくなれる瞬間。それは実は、誰にも余裕がなかった当時と同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に、現在も実感することが難しいと思う。
だからこそ、気持ちよく「泣く」ための映画が量産され、誰もが必死に泣こうとし、泣ける自分を実感、アピールしようとする。そして、それが薄く蔓延するほどに、空々しく空虚になっていく。
そんな今だからこそ、広く知られて欲しい映画。


素晴らしき日曜日 [DVD]

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