『かぶりつき人生』 68年 神代辰巳監督 


神代辰巳監督デビュー作『かぶりつき人生』を、遂にケーブルにて録画、観賞。
冒頭、物陰から覗く目を写した粒子の粗いモノクロ写真にかぶるボサノヴァ調のテーマ曲(!?)が

おとこはおとこ おんなはおんな みんなはみんな

と、いきなりクマシロで掴まれる。


この映画を観た原作の田中小実昌から、「文学青年なんですね」と言われたことを気にして(コミさん自身は決して悪い意味で言ったわけじゃないらしいのだが…)、ロマンポルノ以降の剥き出し&脱力路線に進んだというエピソードが「なるほど」と思える、後の神代映画に比べて混沌とした情念が、よりストレートにぶつけられている印象。神代自身、まだ折り合いのついていないものを叩きつけているような生々しさがある。



男無しで生きていけずに男に騙され続けている場末のストリッパーの母親に苛立ち、自分を堅気に育てたがっている彼女への反発から自分もヌードダンサーになるが、母親とは逆に、男を踏み台にして成り上がっていこうとする主人公の殿岡ハツエ。だが、男への情や期待をまったく割り切っているわけでもなく、彼女の気持ちを汲んでくれる紳士的な男だった劇場主と初めて寝るシーンの笑顔や戯れる仕草は可愛らしく、観ていてつい微笑んでしまう。
しかし、更に成り上がって女優となる為に彼と別れてトップ屋の男と付き合い、男に裏切られ続けた果て独りになった母の生き様への反発から幸せな結婚を求めた彼女は、トップ屋との関係が次第に母とヒモの男達のそれに似てくることに苛立つ。そうした、虚しさを独りかみ締める表情と、無邪気な笑顔が未整理に混在していて、より主人公の揺れを生々しく感じさせる。



雨の中、差し掛けられる傘を振り切って足早に歩き続けるが、結局「どうもならんわ…」と、男の車に戻るシーン。
劇場主と別れ、歩道橋を渡った先にトップ屋が待っているといった、独特のオカシイ長廻し。
そして、女が男のニキビを取ってやるといった、「デキた」後の男女の仕草を捕まえて、一気に生理に肉薄する手際。
主人公に憧れる少女が、つれなくされていきなり彼女を車道に突き飛ばすシーンの唐突な恐さなど、後の神代の原型的エッセンスは満載。


しかしそれは、

「うちは今日限り、ミウラユウキチいう男を捨ててしまうんや。ユウキチは金もない、才能もない、あげくが、公金横領で、会社をクビになった哀れな男やった。うちは生まれ変わる。うちの好きなことをするためや。生きるいうことを、体で感じ取るためや。その他に何がある」
「うち、どこまでが芝居で、どこまでがほんとうの自分かわからんようになる。けったいな具合やわ」
「うち、女優になってほんまによかったんやな。今が一番幸せやろうな」

といった、監督の自己言及とも取れるような、直裁で説明的なセリフを挟みながら、日活らしいモダンさを残す端正なモノクロ映像の合間に現われることで、ある意味より際立ってストレートに伝わってくる。

ふと出会った「ふとん屋」の男(ちょっと小林旭風)の、裸一貫から成りあがろうとする正直さと健康なたくましさに好意を持ったのか、男の気持ちを試すように、トップ屋を殺す計画を本人も本気とも冗談ともつかないふうで持ちかけるシーンの、まだ「ヤッテない」男女が会話で試し合い、凭れあい、押し引きしあう丁寧、端正な描写も、その後の作品からはちょっと観られない種類のものだ。


ラスト、ピンク女優になった彼女を訊ねてきた初恋の男をつれなくあしらった為に、男に刺されてしまった主人公は、自分が死んだら財産は全部ふとん屋にやってくれ、と一度は遺言を口にするが、自分も刺した男も助かると知った途端、「また運が向いてきよる」と気を取り直し、当の男に向かって「あんた、出てきたらうちと商売やる気ないか」「うち正直いうて、あんたを好きな時、あったけどな、今迄のことはみんな水に流して。うち映画の方、もっと続けたいし、時々店にも顔を出すけどな、儲けは四分六でどう?」と、しれっと持ちかける。これが、もう恋愛感情はとっくに醒めた男への優しさと、人懐っこさを感じさせ、妙に憎めない。


そして流れるテーマ曲。

わたしの胸に住む 一匹の狐 今日も谷間に吠える狐
みんなは みんな みんな

どうしようもなく原体験に縛られ、それに必死に逆らおうとするが、気まぐれな自分の気持ちも含めて、確かなものは何も無い。けれど様々な出会いやはずみから「何かがはじまる」時の彼女の笑顔は明るく愛らしい。切ないけれどたくましい。
その後の『恋人たちは濡れた』などでは、こうした背景の描写や説明一切がはぶかれ、デラシネ的な人間の性懲りの無さや切なさそのものだけが描かれるようになるが(そのことによって、特定の因果に回収されない広がりが映画に生まれるのだが)、作品固有の背景が情念込みで諸々省かれることなくぶち込まれ、独特のテンションを生んでいる本作は、個人的には神代の中でもかなり好きな一本になった。今、この瞬間で言えば、いちばん好きかもしれない。


「宿命とか神とか、そういうものに対抗していく、血が吹き出るような絶叫を天に向かって吐くような人間のドラマ」を描く、『実録・共産党』の笠原和夫に対し、徹底して逃げ、逆らいながら逆らいきれない人間の可憐さを愛し肯定する神代の姿勢は一見逆だが、人を丸裸にひん剥かずに居られないふてぶてしい情念と、「抗う」人間たちへの底のところでの優しさ、或いはロマンのようなものが一脈通じて自分には感じられる。
そしてこの二人、両人とも終戦時が青春の只中だった昭和二年生まれ。この時期に生まれたある種の人々の表現に(他にも昭和4年生まれの色川武大とか)、前後どの世代よりも自分は強く惹かれることが多いようだ。
それが何なのか、これは今後の大きなテーマとして、じっくり考えていきたい。