映画『パッチギ!』監督 井筒和幸


mixiの方でやりとりした文章を、こちらにも転載します。



以前虎ノ門で井筒が『誰も知らない』観て、「いい気なもんだね!」「ちゃんと怒りを表明するべき!」と激怒していたことがあって、これはそうした浅〜い「「ボクはわかってる」への怒りを込めたアンサーなんだなってことが、俺にもわかりました。
それと同時に感じたのは、シナリオ話法における笠原和夫の影響(というかリスペクト)。話自体は、日本人対在日、それも、音楽やってるボンボンという、現代っ子が感情移入しやすい入り口を付けながら、かなり暴力的な世界に観衆を立ち会わせる。話はいわゆるリアルな断片のつぎはぎじゃなく、「講談調」にまとめられているけれど、例えば親善試合での「友好のために」とかいってる日本側に対して朝高の「お前ら死ぬ気でやれ!」、イムジン川で一族郎党涙するシーン、ヒロインの「あんた、朝鮮人になれる?」と、さりげなく背景の断層の深さを伝えるセリフが随所に挟まれる。
そして肝のところでキマる、じいさんの「お前帰れ!」で終わる長台詞。これは、まさに『二百三高地』や『大日本帝国』で笠原和夫がやってた手法をしっかりと踏襲している。



しかし!はっきりと違うのは、今日本の過去の「反省」をつきつけ、民族の壁を乗り越えることを語ることに、受け手はまったくノーリスクだということ。これは結局『ジョゼ虎』の省略とまったく同じなんだよ。
現在のヌルい無気力やしたり顔に、バイタリティある正義を対置させたいという意図はわかるし間違っちゃいない。だけど、本当にそれを乗り越えるには、『パッチギ』のその後の部分を、徹底してリアルに描写していくしかないんだよ。
それは必ず、陰々滅めつとしたものになるだろう。すべての朝鮮人が彼らのようにバイタリティに溢れているわけではなく、個人的な現場の話であれ、掘り下げれば日本悪、朝鮮被害者という構図では到底収まらない歴史も見えてくる。子供が差別を受け、また板ばさみとなり、父母は離れた場所で年老い、しかも彼らには決して和解はない。その時彼らはどう生きるのか。
それに対する、決して「勝ち」のない、決着のない戦いを身を持って示し、また周囲(この映画に感動するような人間含めた、ほとんどすべての人々)の保身やしたり顔や反発や自己完結を、退け続ける実践を続け、戦いの存在を肯定し続ける以外に、我々にできることは実はない。
だから、この映画は『やくざの墓場 くちなしの花』と同時上映されるべきだったと思う(俺は、あの映画のラストは、これ以外にあり得ないハッピーエンドだと考えている)。



状況に対してとか、娯楽作という落としどころという言い方は、もっともらしいようでやはり違う。例えば『実録・共産党』を、仮にあのシナリオ通りに公開できたら、『パッチギ!』をはるかに上回る話題とインパクトを生むことは間違いないし、『大日本帝国』を敗戦記念日に地上波のゴールデンタイムに現在放送したとしたら、もの凄いことになると思う。
「それは現実的に無理」というのが穏当な判断だったりもするが、穏当な判断の元に存在しているのが『パッチギ!』に感動している人たちの生き方の結果ある現実だ(だから、そんな小賢しいこと考えずに、それは製作者にまかせておいて、受け手は映画そのものと本気で向き合い、自分の現場に向き合っていけばいいんだよ)。

孤独とは、けっして単独な状態ではない。孤独はのがれがたく連隊の中にはらまれている。そして、このような孤独にあえて立ち返る勇気を持たぬかぎり、いかなる連帯も出発しないのである。無傷な、よろこばしい連帯というものはこの世界には存在しない。


この連帯は、べつの条件のもとでは、ふたたび解体するだろう。そして、潮に引きのこされるように、単独な個人がそのあとに残り、連帯へのながい、執拗な模索がおなじようにはじまるであろう。こうして、さいげんもなくくり返される連帯と解体の反復のなかで、つねに変わらず存続するものは一人の人間の孤独であり、この孤独が軸になることによって、はじめてこれらのいたましい反復のうえに、一つの秩序が存在することを信ずることができるようになるのである。



石原吉郎『ある<共生>の体験から』より

ここに向き合い続ける覚悟と実践の欠けた希望は、すべてまがい物であり、むしろ悪である。