旅先にて『母をたずねて三千里』


昨日は10年近くぶりで海水浴へ。
全国的な猛暑の日ではあったけれど海風も涼しく、北海道の日差しをナメてロクに日焼け対策をしていなかったため、翌日は全身真っ赤になって苦しむはめに。
ま、それも含めて久々に夏を満喫したってことで良し。


昨日は一日何処にも出かけず、同居人の実家でスカパー観ながらすごす。
帰ってきたウルトラマン』の「怪獣少年の復讐」という回。
怪獣に電車ごと運転手だった父親を殺されてしまった少年が、以来虚言癖に。
貧しいビッコの少年に、世間の目は平気で冷たい。
こうしたリアルな貧富がまだ日常の中に残っていた時代の方が、実は周囲の警戒や蔑みも含めて「生きていくことは厳しい」という描写が当たり前に含まれている。



その後、今度は『母をたずねて三千里』の一挙放映を。
こちらも、現在の目で見ると、貧しい人々のための無料診療所の運動のために働く父と、それを助けて家計を支える母の元、「決して豊かではないがリベラルで現代的な家庭で育った」マルコの視点を狂言回しに、母を訪ねる貧乏旅行の先々で出会う(主に貧しい)人々の生活に視聴者である子供たちを出会わせる物語であることがはっきりわかる(あの『火垂るの墓』がまさにそうだったように)。
中でもシリーズ中盤、コルトバの貧民街の少年パブロとのエピソードは子供心に印象が鮮烈で、今回も偶然見始めたのが調度このエピソードからだったため、そのまま4時間ぶっ通しでラストまで見てしまうハメに。


前の町で、親切なイタリア移民たちのカンパによってようやくたどり着いた母の勤め先は、すでに引っ越した後の空き家。見知らぬ夜の街で途方に暮れるマルコは、レストランのゴミ漁りをしている少年に出会う。あっけにとられて見つめているマルコを、裕福な子供の蔑みと勘違いした少年は怒りの目で見返し、殴りかかってくる。
しかし、やがて「帰るところの無い」マルコの事情を察した少年パブロは、年老いた祖父と幼い妹フアナの3人で暮らす貧民街の自分の家に彼を招く。
パブロはまだ子供だけれど、貧しい一家の生計を支える家長なのだ。
ゴミだと思って捨てようとした干からびたトウモロコシが、実はフアナが大切にしている人形だったと知ってマルコが愕然とするくだり、町自体が貧しく、パブロを子供扱いして同情してくれることもない職場の大人たちなど、貧富のディティールが丁寧に描きこまれる。


やがて、パブロはマルコの母の雇い主の親族を見つけ、マルコは母の消息とそこまでの旅費を得ることができるが、帰ってみると雨に降られて風邪をこじらせたフアナが肺炎になりかけて苦しんでいた。
マルコはすぐに医者を呼ぶように勧めるが、何故か誰も耳を貸さず、やがてパブロは「やめろ!」と叫ぶ。この町の病院では治療費の払えない貧民街の人たちは、住所を告げただけで門前払いされてしまうのだ。


マルコは意を決して医者を呼びに行く。パブロの言うとおり門前払いされるが、何件目かの医者で、懐に持っていた旅費を先に見せると途端に態度が変わり、フアナは一命を取り留める。
マルコは黙って街を去ろうとするが、すべてを察したパブロは、自分が囮になって駅員に殴られることでマルコを汽車に忍び込ませてくれるのだった...


『ハイジ』や『アン』もそうだけれど、高畑、宮崎らによるこのシリーズの作品は、その土地、時代の人々の暮らしぶりのディティール、道具や食べ物の質感までが時間をかけて表現されていて、細かい物語エピソード自体の内容は忘れてしまっていても、その場面や質感だけは強烈に焼きついていることが多い。中でもこのパブロのエピソードは特に、それが物語と一体になって細かい描写まで鮮明な記憶として残っていた。

今見返すと、「いい話」として通り過ぎていくパブロ達の「描かれない」未来の切なさも、また自然に意識されてしまう。
そして俺は、実際のパブロ達が、物語の中のように、我々に都合よく美しくないことも知っている(そして、彼らに対する我々自身も)。




中学の頃、学校の近所に家庭の事情であずけられた子供たちが暮らす養護施設があって、学年に何人かの割合で施設の子が混じっていた。
施設の子には滅茶苦茶コワいヤンキーや、年の割に妙に大人びている遊び人風の兄ちゃんねえちゃんもいて(何故か妙に金回りもいい)、田舎中学では突出した「裏番」的な位置を占める者も少なくなかったけれど、一方で明らかに幼い頃にロクに親にかまわれず、知的、情緒的な成長に歪みが現れた、一目で貧しさの刻印が見て取れるタイプの子も混じっていた。


土地の空気から浮いている、よそ者の学校教員の息子だった俺は、放課後のガキ共の「ワルサ」の世界にうまくなじみきれていなかった為もあって、露骨に苛められたりはしないもののいつもどこか浮いていたので、どこかで寂しいさを共有している彼らは、それだけで他の子よりは友達として感情移入がしやすかった。
ある時、教室で財布や給食費などの盗難が相次ぎ、教師も含めて誰もが言外に彼らを疑っていた。俺は口に出したりする甲斐性は到底なかったけれど、そうした空気に反発して内心彼らに同情していた。が、ある時彼らと話していると、体育の授業中に盗みをやっていることを語り、「あいつら間抜けだから簡単だぜ」と誘われた。俺は彼らに付き合うこともできず、かと言って注意する気にもまったくならなかった。彼らと自分の距離を肌で感じていたからだ。


またある時、彼らを自分の部屋に招待した時のこと。
彼らは、俺がこっそり大切に集めていたアニメ雑誌やグッズなどをやたらと欲しがった。
俺は彼らが実はそれらに大して興味がなく、どうせすぐに飽きてしまうことが予想できたから、内心分けてやるのが嫌だったのだが、そうしたものに思い入れるだけの文化的余裕を持っている自分への後ろめたさ、恥ずかしさと、お互いの間の溝が意識されること嫌さに、こだわりの無いふうを装って彼らにふるまった。それでいて、案の定それらを粗末に扱い放り出している様子を後日目にしては、根に持ったりしていた。


卒業後も、彼らは時々連絡をくれて何度か会ったが、現場を転々としながら相変わらず定まった居場所を持てないでいるらしい彼らとの時間はすぐに煮つまり、昔のクラスメイトの悪口くらいしか話題も無いまま、そうした無為の淀みに初めから慣れきっているようにも見える彼らとの付き合いが面倒になってきて、だんだん連絡があっても居留守を使うようになり、やがて音信不通となった。


自分の青臭さをどこかで肯定したまま生きている手前、まともに彼らに付き合わず遠ざけてしまったことが気になっていたが、考えてみると、自分には彼らと共有するものも、彼らにしてやれることも実は何もないのだ。
いや、実は「してやれる」なんて発想自体が傲慢で、自分のことさえままならない甘ちゃんが、てめえの不出来を感傷に転嫁してるだけってところも確実にあった。


けれど今、当時のそうした自分の揺れを否定しているかといえば、そうじゃない。
むしろ現在は、「「してやれる」なんて発想自体が傲慢」という角度のみを、結論のようにさっさと掲げて開き直る向きが多すぎるし、それこそが問題だと思っている。




リアルな貧富が身近から消えた80年代、バブルを経て、『火垂るの墓』や『おもひでぽろぽろ』などの高畑作品は、団塊世代や新人類世代のインテリから「教条的だ」「説教くさい」と批判されることが多くなった。
確かに俺も、豊かさの中での若者の退廃やニヒリズムに対して、「貧しい国や戦争している国にいる人たちの抱える問題に比べたら、そんなことはくだらない」なんてことを口にする古臭い左翼には当時反発を感じた。「貧しさ」や「戦争」といったわかりやすい不幸や悪に対して「正しい」立場を主張することで、自分を含めた人間の中に普遍的に存在するエゴや暴力を認め、直視することを誤魔化し拒んでいると感じられたから。


しかし今、こうした善意に力んでこだわることは一般的でなくなった代わりに、「彼ら」と「自分」の距離にはじめから居直ることを正当化するような利己主義は無批判にはびこっている。
「「してやれる」なんて発想自体が傲慢」という言い方は一見謙虚そうだが、実は他者の権利を意識することで自分の自由と権利が侵食されることを拒む利己を、美化して言い換えているだけなのだ。また、こういう連中に限って、幸不幸の尺度はそれぞれで、「意識の上で自分より彼らが不幸であるとは限らない」なんてしゃあしゃあと言う。


確かに、生まれ育ちも資質も違う彼らと俺とでは、幸福の基準値も尺度も違い、ほとんど共有することができない。そして同時に、それは別々に、無関係にただ存在しているわけではなく、一方がそれを求め広げていくことが、他方を侵食し、阻害することは往々にある。


帰ってきたウルトラマン』でも『母をたずねて三千里』でも、びっことかめくらといった所謂「差別語」が、やたらとカットされていることが気になった。
しかし、どう言い換えたところで、そうしたハンディも、またハンディに対する蔑みも、まったく消えることはありえない。むしろ言葉を消してしまうことによって、そうした差別や競争原理を事実抱える自分たちを、普通に直視し、前提とすることができなくなってしまう。
けれど、こうした言葉を消すことに対して、敢えて拘り反対することは、どうしても自分の中の「悪」を認め、わざわざ強調する形になってしまうから、大抵の人間は「面倒」や「保身」を「善意」に摩り替えてスルーしてしまう。


こうした「なし崩し」の中で、現在、「保身」の結果の極端な奇麗事と、それに対する反動として現れるニヒリスティックな達観がはびこっていることは、余程鈍感な者以外は誰もが感じているところだと思う。これらは一見両極端な現象と写るけれど、実は「自分」へのツッコミを厭う利己心から発した「こういうことにしとけばいいじゃん」という思考停止である点で、コインの裏表にすぎない。


倫理や道徳は、個人の自由を制限するものとして、ことに文化的な世界からは厭われがちだけれど、個々の自由がただ野放しになった場合、通りのいいもの、声の大きな自由ばかりが幅をきかせる結果になることもまた、当然のことだ。
そして倫理や道徳というのは、それらの格差がなるべく野放図に広がらないためにあるものだということは、もっと思い出され、意識されるべきだと思う。


そういった意味でも例えば『となりのトトロ』を観て、安易に田舎暮らしやスローライフに憧れる連中に、「お前ら本気で百姓やる覚悟はあるのか?」とつきつけてくる「おもひでぽろぽろ」などは、今こそ意味を増している作品だとも思う。


人は自分だけのために生きているわけじゃない。
人は他人のために生きていいし、生きるべきだという想像力は取り戻されるべきだ。
人が逃れがたく抱え続けるエゴと暴力を、その後ろめたさごと引き受け、決して決着のつかないものとして考え続ける覚悟と共に。


母をたずねて三千里(11) [DVD]

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