本宮ひろ志『国が燃える』連載中断について


従軍慰安婦の件なんかもそうだったけど、どのくらい殺してたら虐殺か、虐殺じゃないかなんて、細かい史実検証になっていっちゃうのがどうしようもなくツマラン。そんなことどうでもいいとまでは言わないけど、そういうことはしかるべき研究者にまかせるよ。
で、そうやってどうしても虐殺をあったとしたい、あるいは無かったとしたい人っていうのは、戦争を戦った先達やかつての日本を誇りたいか、あるいはとにかくそうしたかつての日本の(そして、今も残る)体質を断罪したい、ってことでしょう?
しかし、南京で殺した人数が、どうしてあなたがたの誇りや正義に直結するのか、俺にはさっぱりわからん。


南京大虐殺の有無の如何に関わらず、日本兵の中のある一定数は、立場をかさに着たり、集団的な熱狂や脅迫に呑まれて狼藉をはたらいたことは確かだし、そういう体験や、三国人への差別感情を自慢げに語るような老人を、俺自身子供の頃から結構見てきた。
けれど同時に、もしそうした状況に自分が叩き込まれた場合、自分ひとり毅然としていられるとも到底思えない。保身のためにある程度周囲に同調したり(こうした場合、自然に同調できないような者ほど、こぼれ落ちることを恐れてやりすぎてしまったりするのも常だ)、積極的に同調しないにしても、おそらく状況に対してまったく無力であろうと想像する。
自分の弱さを棚に上げて、居丈高に他人の失点を叩くことで自分の立場を正当化しようとするような態度は、戦時中に熱狂の中でうわずった調子付き方をしていた人たちと、なんら変わるところがないと俺には見える。


そして何よりアホらしいのは、要するにキミ達もしかして、例えば『サラリーマン金太郎』読んで、真に受けて、日本のサラリマーン社会の実態について考えたりとかしてたの?ってこと。
世間に公認されているイメージに後ノリして、世の共感を取り付けたり自分の評価を上げたりってことは、あまり褒められたことでは無いと思うし、商業マンガ家としてそういうヤマっ気が本宮御大になかったかと言えば、おそらくあっただろう。そして、当世においてそうした場合にネタにするには、南京大虐殺というのは評価の定まらないかなり微妙なネタで、そういう意味では脇が甘かったとも思う。
けどさ、そうしたアバウトな大風呂敷加減が本宮ひろ志の魅力でもあるってこと、少なくともマンガ読みには当然の了解事項だと思うんだが。
傘にかかった強者(や追随する弱者)の横暴に立ち向かうヒロイズム、義侠心と人情。それが彼のマンガに一貫したテーマであって、極論すれば、戦争や虐殺云々などは、それをもっともらしく、かつ魅力的に発揮するための舞台設定、趣向にすぎないだろう。
安易にイメージに乗っかった本宮の甘さに対する批判自体はあっていいと思う。ただ、歴史については素人のマンガ家を捕まえて、連載中止の圧力をかけるなんてのは、いったいどういう了見なんだろうね。
これは、思想戦なんてものですらないよ。本宮の描く、仁義や人情そのものの限界や功罪に踏み込んで語るなら思想的なスリルもあるけど、虐殺の有無や、戦中の日本の社会的な評価さえ変われば、自分の誇りも補填されるなんて理屈は、自分の不確かさを安易に世の趨勢に連なろうとすることで埋めようとするような、セコく情けない態度にしか見えない。
自分が何に拠り、何を信じて生きていくべきかを誠実に問う態度とは、到底思えない。


しかし、集英社の事なかれ主義的収拾も、無いものねだりとはいえ何とも残念。週刊プレ連載の今東光『毒舌辻説法』が、学会と揉めてたころ(本宮ひろ志俺の空』と二大看板連載だった)のやくざな頼もしさは、さすがにもう過去のものか。



天然まんが家 (集英社文庫)

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