最近の覚書(その1)


大島弓子グーグーだって猫である』3巻を読む。かつてはサバと恋人のように暮らしていた大島弓子が、今では子供をぽんぽん生んでバタバタと忙しく育ててるおっかさんみたいになっていて(それを描く線もぐっと太く逞しくなっている)、いいなあと思いながら読んでたら...
子猫を里親に出すくだりになって、いきなり千々に乱れている大島さんを見て、あらためて人間の業の深さっていうのを思い出した。2巻で自分のガンと闘病を、あれだけ静かに突き放して受け止めることができた大島さんが、子猫のこととなると極度に繊細になって歯止めが利かなくなる。「十全な繊細さ」を求めて自分も乱れるし、他者にもそれを期待したくなって、どうにも止まらない。それが「わがまま」でもあるってことを、猫のこととなると認めることができず、自分の欲望を突き放して眺めることが全然できていない。
そんな彼女に対する、友人知人や編集者など周囲の対応から、実は今も大島さんは「彼女だから仕方ない」ってふうに腫れ物に触るような気遣いの中に守られて生きているんだなって楽屋裏が、この一件をきっかけにふと覗いてしまった。


そうした特別な弱さは悪ではない。弱いものは弱いんだし、揺れる時は揺れる。壊れる時は壊れる。守られることが悪いことだとも思わない。自分も限りある時間をなるべく快適、幸福に生きたいと思うし、彼女の才能と作品を愛する人たちが、彼女を守りたいという気持ちもわかる。
ただ、元々極度に繊細で感応力が高く、機微に聡い人だからこそ、他者の身近にい続けることに耐えられずに、静かに一人でいることを選んでいる彼女を、強くて謙虚な人だなと憧れていたので、久しぶりにこうした地金の部分が覗いたことに、読んだ時ちょっとショックだった。
本当に時間が経ってからでいいから、ご自身の「理解なき和解の日々」という言葉を、この件についても当てはめて反芻してくれたらいいな、とわがままな読者は思った。
(そんなことはともかく、とにかくこの巻では、タマのいじらしさと可愛さにやられっぱなしだったんだけど...)


■最近、読書層に人気の高いよしながふみの『フラワーオブライフ』を読んで感じた「ある印象」が残っていた影響もあったかもしれない。
「不穏なくらい繊細」な特殊性が、良くも悪くもはっきりしている大島弓子にくらべて(彼女に比べればどんな人だってそうだろうけれど...)、よしながふみの作品は、もっとおちついた穏当で大人な印象。人間関係の機微や気遣いが、本当に微に入り、細を穿つように描かれていて、単純に感心する。特に若い頃は、こうした行き届いた視線で自分の五里霧中の葛藤を、さりげなく言葉にしてくれて、自分の至らなさを知り、さらにそうした青い時期の渦中にいることさえ肯定してくれる人や作品に出会ったら、嬉しいし助かるだろうなと思う。
ただ同時に、自分だったらどうだろうと考えると、悪い気はしないまでも、あまりハマらなかっただろうなとも思う(ハマるようなものじゃないからこそ良いって見方はあるんだろうけれど)。何と言うか人って(特に自分のような面倒くさい人間は)、事後的な視点による穏当さや正しさじゃなく、その人が抱える本質的な未解決の葛藤のリアリティに感応し、勇気付けられるものだとも思うから。
とはいえ、そういう役割の作家は多分他にいるのだろうし、繊細さに中毒したり、反動で投げやりに強がってるような、内向きなタイプの作家や作品が蔓延している中で、穏当な大人であるってこと自体、凄く希少なことだとは思うし好感は持つんだけれど。


ただ本質的なことを言えば、視線やメッセージが、微に入り細に入り行き届いたものであればあるほど、世界ってそういう人だけで出来上がってるわけじゃないんだよってことが、どうしても逆に浮かび上がってくる。
そうした暴力的な理不尽や重さというのは敢えて匂わせる程度にして、それでも日々を生き続ける人と生活を愛しむという意図だってことはよくわかる。
特に最終巻、線が細くてどうしても外界に順応できないお姉ちゃんや、最終的にどうしようもなく恋愛感情に引きずられてしまうシゲさんの、ある意味唐突な描き方には、人の弱さと厄介さを合理化せず忘れまいとする意志を感じるし、お母さんのきっぱりとした厳しさや、それぞれがそれぞれの限界を「自分」として自覚し引き受けていく過程も、誠実だと思う。
ただ、最終的にやはり自分はそれを、何だか行き届きすぎててこそばゆく感じてしまうのも事実なのだ。多少意地悪く言えば、一生懸命行き届かせようと「一生懸命押さえている」ように見えてしまう。
このマンガ、全体に病気を抱えている人同志が気遣いあっているような優しさが基調低音に流れていて(実際そういう設定なんだけど)、そういうのって自分の人間関係の作り方においても思い切り心当たりがあるし、いじらしく思うんだけどね... 何と言うか、外はやっぱり嵐だし、自分も含め人って本当に物分りよくないもんだよ。


いくら妥当な物の見方でも、受け付けないものもいれば、理解さえ出来ない者(理解したくない者)もいる。そうしたことと一切関係なく生きていってしまう愚か者もいる。極論すれば、そうした「言葉の通じない」ものこそが、本来「他者」「他人」であり、そうした自他の「変えるに変えられない」理不尽にいかに耐え、それはそれとしてやっていけるかってことが、本当は人生の大半を締める課題なんじゃないだろうか。
「それを描いているのが、よしながふみだ」と反論されそうだけど、やっぱり俺はそう感じる。様々な立場の人間たちのドラマを並立させて、それをパズルのように束ねるこのマンガでの彼女の手腕は凄いなと思うんだが、俺は逆に、束ねられずにすれ違いっぱなしの方が良かったんじゃないかなともちょっと思う。都合もタイミングもかみ合わず、すれ違いっぱなしだからこその、それぞれの孤独であり、誰もがまずそこの折り合いに四苦八苦して生きていくわけだから。


細かい難癖っぽくなってしまったけど、『わらの犬』のラストに深く共感するような、こういう人間の感じ方もあるってことを、ちょっと書いておきたかった。


グーグーだって猫である (3)

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フラワー・オブ・ライフ (4) (ウィングス・コミックス)

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