同級生が心配


ニュースで以前の奈良の幼女誘拐殺人事件の続報をやってて、同居人がポツリ。
「五郎さんくらいの齢の男の人がいちばん歪んでる気がする」
そこから何かの拍子で、「今日びの高校生は知恵をつけてるから絶対コンドームつけさせるけど、中学生だったらナマでやれることが多い」とかのたまってる援交の客がいるらしい、なんて何ともナマ臭い話になって、「自分の娘と被ったりしないのかね...」とため息まじりに言ったら、「いや、それ言ってるの、多分五郎さんくらいの齢の人だと思うよ」と、また返されてしまった。


彼女は通学中の小田急線で、大股広げて席を譲ろうとしない30代のリーマン連中によくぶつかるらしく、「周りを意に介さない我が物顔の人はあのくらいの齢の人に極端に多い」とよく言っているので、そのへんの私怨込みかとも思ったんだが、話しているうちにちょっと自分にも心当たりが出てきた。
確か高校くらいの頃だったか、どちらかというとアニメやマンガなんかが好きな、おとなしくてオタクっぽい連中と取り留めの無い雑談をしている時に、誰かが「自分は結婚するなら処女じゃないと駄目だ」と言い放った。
今よりずっと、学生にとって恋愛やセックスのハードルの高い時代だったけど、それでも俺はギョっとするものがあって、今でもこうして思い出すくらい反発を感じたんだけれど、あらためて考えてみると、結構大人しくて不器用で、外よりも家庭の常識に従順に育ってるような連中には、案外そういう無条件の固さと、根っこの我侭さがない混ぜになってるようなヤツは珍しくなかったような気がする。
俺自身は、たまたま固い教員家庭で育った反動もあって、そういう保守的な頑迷さに極端に反発があったわけだが、それにしたって根っこのところで「古風」な倫理観みたいなものを強く意識していることにかわりはない。


それと、現代的な社会の底が抜けたようなズルズル加減というのが齟齬を起こして、なんだか妙に拗れてしまっているような気配と、最近の異常犯罪に、この世代が妙に多いことには、何となく因果関係のようなものを感じる。
自分の場合は、そうした「古風な」カタさとか、自分の「イイ子」性からなるべく遠ざかりたいという気持ちが強くて(半面、軽薄な世の中にも反発があって、どっちつかずで随分混乱もしたが)、ワルさのおかげで自分の中にいろいろ新しい現実を持ち、元あった育ちとそれとの分裂を恥じたりしつつ、それが幅になって通念をはみ出た存在への許容に繋がっていったようなところがあるのだが、当時の彼らが大きな挫折や意識的な変化をしないまま、なんとなく今に至っていたら、どうなっているだろうと考えると、ちょっと怖くなってきた。


これがもっと下の世代になると、良い悪いは別にして、初めからそうした固さとか恥の感覚がなくなっていて、こういう捩れ、拗れは薄まってるんじゃなかという気がする。ニートなんて言葉に象徴的なように...
といっても、これも思いつきレベルの与太話で、地方に行けば、そんなふうに煮詰まってる大人しいやつなんて、今だっていくいらでもいるんだろうけれど。




しかしこうした、概念が現実とずれて形骸化することの不幸というのは、何も昔に限った話じゃない。
例えば「男女平等」とか「対等な付き合い」とかいった言い方が、今も正論のようにまかり通っているけれど、こうした言い方も俺には、現実を縛ったり混乱させたりしてる部分の方が多い気がする。
「平等」も「対等」も肯定的なニュアンスの言葉で、俺も色んな関係がそうあれたらいいなとは思うけれど、男女に限らず、人間関係が対等なんてこと、実際そうそうあるもんだろうか?
どういう状態を指して、対等とするのか。これはもう、場合により人によりとしか言いようがないし、煎じ詰めれば、それぞれがどう納得しているかでしかなかったりする。
キリのない話だからこそ、目安としての通念や倫理みたいなものは必要なんだが、同時にそうした「それぞれ」について、強引に単一の尺度で裁きたいなんてことを思うと、ロクなことにならない。
「平等」とか「対等」というのは、言葉に有無を言わせない響きがあるわりに、意味が大雑把で雑すぎる。
だから、結果として言葉に引きずられて、非現実的な概念の争いのもとにばかりなっている気がする。
概念とかイメージというのは、現実同士のすり合わせとか、斟酌というものがないので、果てしの無いことになり、悲惨なことになりがちなのだ。