ヘルシー女子大生日記の浅羽通明論へのコメント

http://d.hatena.ne.jp/kurosawa31/20040210
一連の浅羽通明論、kurosawaさんの歴史に学び検証つつ、そこから「使える思想」を鍛えていこうという姿勢は小気味よく明快で、その後も楽しく読ませていただいてました。正直、僕はこのあたりの思想、オピニオン系の本を熱心に読まなくなって久しいのだけれど、かつて浅羽さんの著作からは正負込みで、いろいろ考えるきっかけをいただきました。そう、正にそれは「きっかけ」のためのオピニオンだったと思う。


思い切り乱暴な言い方になりますが、現状において支配的な現実原則を一足飛びに越えるために、人はより正しい模範解答としての思想を求めがちです(勿論、思想が本当にそれだけのものだといいたいわけじゃありません)。特に、社会の方向性や求心力を担う役割を近代的知識人が強く要請されていた時代と違い、現在のように自分の生き方を制限する社会が緩くて抽象的な末期的資本主義状況下においては、思想も(プロアマを問わず)個々のエゴを拡張し正当化するツールとしてのみそれぞれタコツボの中で言い立てられあうようなことにもなりがちですね。


浅羽さんたちが影響力を持って読まれた90年前後というのは、調度その状況が完成する前の端境期というのか、55年体制の崩壊とバブル状況の中での進歩主義的言説の風化や動揺がありつつ、片方で一枚岩な社会も残っていてオタク(知のオタクたるインテリ含む)がずっとオタクやっていけるかどうかについて焦りや不安も大きかった。その中で、「自分の身の丈や社会的なリアリティの中で、知の意味や位置づけを洗い直せ」という彼等の言葉は強く響いたわけです。


けれど、その後、消費社会の充実の賜物である分衆化と一億総オタク化は順調に進み、オタク市場は膨れ上がって、彼等の問いかけはうやむやになってしまった。特にそこに浸りきっている人間にとっては「時代遅れのもの」として一刻も早く拭い去りたいプレッシャーの記憶でしかなくなっていった。


ただ、歴史というのは単線で一枚岩に進むものではないし、場所が変われば個々の現実の在り方も異なる。『大学で〜』についての浅羽さんと宮台さんの見解の違いというのも、僕には思想の衝突というよりも、それぞれが生きた場所のリアリティの衝突に見えた。東京私立の文化エリートとして生きて来て、ご自身も(最早半ば無意識なくらい)常に先端であろうとされている宮台さんと、そうした先端に同調しようとすればするほどご自身の現実との間に軋みを生じ不適応を深めるという違和感がベースにあり、かといって「大衆」にもなれない、だから独自に「降りる」方法としてのオタク的な在り方に早くから意識的だった浅羽さんの。


だから、発言が常に政策的である宮台さんに対し、浅羽さんははぐれた個々の人間の、現状における処世術という方向での提言になる。ただ、そこで正直宮台さんも、原日本社会的なものをつきつけてくる浅羽さん的なものに対するアレルギーが激しかったと思うし、浅羽さんの方にも、宮台さん的な特権的エリートアカデミシャンへのコンプレックスと反発に距離が取れず、勢い「大衆」に依拠しすぎ、またその変化への批判に固執し過ぎたところがあったと思います。それがその後、こうした議論をますます閉じたものと印象づけ、またプチインテリがオタクとして自足してしまった後、そこから浅羽さんが総スカンを食らった根本原因になっていると思う。


で、僭越ながらkurosawaさんに対して思うのは、当時の浅羽さんの轍を踏んでいただきたくないということです。タコツボの中で自分基準で「わかっている」ことを自己目的化して排他的に競い合っているような、他者無きオトコノコのロマンスに苛立たれるのはわかるのだけれど(というと生意気かもしれませんが)、残念ながら宮台さん的に言えば「動機づけ」がなければ、いくらもぐらたたき的に倫理を説いたところでそれはうまくいかない。これはもう技術の問題じゃないと思います。


かといって、それにニヒリスティックになることもない。近代という枠組みの中での方向づけや求心力という意味での役割が終わった後のインテリの使命のひとつは、「文化や人間観の幅」を担保すること。それは、模範解答的なスローガンとして啓蒙できるような質のものじゃない。『大学で〜』の頃の浅羽さんの欠点は、隙なくプラグマスティックであろうとするあまり、世界観が息苦しかったということだと思う。
きっかけとしてのシャープな啓蒙の必要は今も変わらないけれど、じっくり散文的な現実に対して大きく構える姿勢こそ、一見迂遠に見えても、社会のつながりや広がりをもう一度意識、体感するために大切なところなんじゃないかと思います。


それが大局的に、状況に対して力を持つかどうかといえば、実のところ難しいだろうな、とも思う。水は低い方にしか流れない、というのは、残念ながら事実だと思うし。
ただ、動物化とかいったところで、そうした状況に適応しきらない人間、はまりきることをよしとしない人間が居続けるだろうこともまたあたりまえだし、そこに生まれる落差を「自分には関係ない」ときって棄てるような立場を、僕は当然支持できない。思想は現状追認の正当化の道具じゃない。
そこで、例えばかつて「自分は大衆を信じないが力としては認める」と言った福田恒存のような姿勢で、生きて行けたらなと思います。
期待に溺れず、希望を棄てず。


長々僭越なお節介、ごめんなさい。