「わかってます」の無限ループからの脱出のために

いやあ、まいったまいった。
kurosawaさんの日記http://d.hatena.ne.jp/kurosawa31/
にお節介なコメントをさせていただいたきっかけで、はてなに群れ集うある種のヤング達(ばかりとも限らないか)のやりとりを垣間見せていただいたんだが...
骸吉君がよく口にする、「我ひとり、傍観者的な高みにおいて」「メタな視点を自己目的化したように」「わかってます、わかっててあえてやってるんですばかり言いたがる」人々というのに、まとめて触れたような気がしたな。こういう連中のことを言ってたわけだね...(とは言っても、これはネット、特にはてななどのこうした界隈に顕著なことだから、あまりこれにばっかこだわり過ぎて、他の現実の広がりを忘れないように!)。
そういうポーズと立ち回りに腐心することが自己目的化しているような、独り善がりの不戦勝君たちの毒気にあてられて、かなりぐったりしてしまった(なんだか、オウム前後の頃の論壇誌のパフォーマンス合戦にうんざりして、その手のものから随分遠ざかっちゃったのを思い出したな)。


いや、まあ若いうちは余裕のないプライドゆえのそうした勝ち気さも仕方が無いと思うしいいんだけど(嫌味じゃなくてね)、「自分の方に理由があるわけじゃない」ってパフォーマンスでヤマアラシのジレンマのループやることで、無駄に頑なになって、本当に見るべきものを見ず、考えるべきことを考えられないって過剰防衛に陥って欲しくないとは強く思った。生意気で申し訳ないけれども。


で、どうしてこういうことにここまで歯止めが無くなってしまうかについて一つ思ったのだけれど、これも骸吉君が昨日の日記に書いている
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20040210

しかし人間は結果的な理屈の正当性より、自分の個人的経験で体に刻印された実感で生きるものでもあることは否定できない。

ってことに対する軽視がでかいんじゃないかと思った。
自分がどういう性質を持ち、どういう状況で育った何者であるのか。
そこを引き受け、考えることを学問やレトリックによる立ち回りでスルーすることにばかり腐心する結果、だから、他の立場の人間にどういう違和感を感じ、どういう衝突が起こっているのか、が見えなくなってるんじゃないか。あるいは意図的に軽視したいのか。


他の時代、他の状況を生きている人達のリアリティに目を凝らし、そこからの距離で考えなければ、自分が生きている現実が何なのか、どういう性質や偏りを持っているのかは見えてこない。
そして、(敢えて〜とか、ネタとかベタとか言う以前に)それにいかに自分が縛られ、また規定されているかという、自分のアイデンティティも。
そしてそういう自分が、他の立場とぶつかったとしても何を守り、また何に躓き、苛立ち変えたいと願っているのかということも。


それを自覚することによって、はじめて自分の「立場」ができ、それを引き受けることがまず、相手の「立場」に対しての仁義の第一歩だと思う。
そこをスルーしたまま、優劣や正しさだけを競い合うような不毛には、本当にできるだけ触れたくないと思う。
そしてそうした安易に人の現実を裁断するような、ある種の人々の利己や敖慢が、言葉、活字の世界のイニシアチブを握り、裏付けや後ろ盾を持たない孤独な個々の立場からあがる声が切り捨てられ、また自分自身の問題に誠実に向き合う(そのためにこそまず他者と向き合う)勇気を挫くようなことがまん延して欲しくないなと、活字を信じたい根無し草としては切に思う。
本当に、それに対抗できるような魅力を自分の活字の中に育めるといいんだが...