放送の公平原則を巡っての町山さんの日記に

bakuhatugoro2004-08-02


gryphon氏が凄くいい問題提起をしていて、面白い展開になるかなと思ったら、その後町山さん曖昧に誤魔化すばかりなので、とても残念だ。

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040725
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20040730


これについては、放送で物を言えるのなんて元々が放送局の特権なんだし、はじめっから公正でも客観でもない「私見」であるってふうに建前を取っ払って、それをこっちが自由に判断するってふうにするのもいいんじゃないかってgryphon氏の意見の方に俺はひかれるね。
新聞にしろテレビにしろ、「結論までは言わないが」ってふうにお茶濁してはいるけれど、そんなのただの保身の建前で顔には書いてあるんだし、「公正」って額面を縦に曖昧な保身をされるより、私見であることに耐えてしっかり批判を受け止めるって姿勢の方がずっとフェアだ(って、間違ってもそんなことになるはずないのはわかってるんだけどさ)。


しかし、gryphon氏の意見に同調できるかっていうとそうでもなくて、「大衆のシビアな視線」っていうのを俺はそんなに信用していない。「その場、その状況」の空気を読んでの立ち回り、状況判断のすばしっこさっていうのは認めるけれど、基本的には強きになびき、弱きをくじく、自分の安全が保証されてる場合に限り、正義もヒロイズムも大好きってもんだと思うから。
それに、どう細かくいじってみても、「自由競争」の平等とか正義っていうのが、俺は最初からペテンだと思ってるから。
声のでかさとか前提条件が、もともと不平等なものなんだからさ。
それはどんな社会、どんな思想でだって変わりようがない。
「自由競争」って思想の一番よくないところは、前提が公平、公正であると装おうとするために、敗者、少数派を自業自得と片付けて、そういう切捨てをやってる自分自身を正当化してしまっていることだ。


だから、町山さんの

オイラや、左右を問わないアメリカ人が皆、ムーアに注目しているのは、
主義主張よりも何よりも、今、いちばん面白いからだ。
どんなハリウッド製の大作映画よりも。

なんて言い方にも、ズルイなと思う。
思想もプロパガンダも、ポップならOKってか?
俺は思想もプロパガンタも頭から否定しないが、やるんならちゃんと引き受けて、確信犯でやってよ、とは強く思う。


この辺のことについては、最近文庫化された笠原和夫の自伝『妖しの民と生まれきて』(ちくま文庫)の中にいいフレーズがあるので引用。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480039406/qid=1091443896/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-6507443-3150710

戦後教育はヘンに抽象的な民主主義を学童に鼓吹したものだから、すぐ「ありのままの自分を認めて欲しい」と言う。神様でない限り、「ありのまま」の他人など理解できるわけがない。民主主義とは「認める」ことではなくて「相争う」ことである。
「争う権利」が平等にある、というだけだ。一票でも多くの賛成者を得たものが勝ち、負けたものは認められないまま我慢しているか、余所の土地に去らなければならない。

本来、民主主義も自由も、アメリカのように空間的にも物質的にもプレンティ(豊富)であることを大前提に成り立つ制度であり、狭い日本列島にそんなものを持ち込むから、逃げ場がなくなって虐めや学童の自殺が起きたりする。この悲劇を解消するには、尻尾を振って味方を増やすしかないのだが、先生も親も「よく話し合えば分かるはず」と称して、尻尾の振り方を教えてくれない。話し合ったって嫌いなやつが好きになれるわけはないのだ。

(ま、こんなこと書いちゃう時点で俺も尻尾の振り方がなっちゃいないんだが、この本、別にこういう意味ばかりじゃなく、本当にすばらしい一冊なので、うちの日記の読者には是非お奨めします。色川武大 阿佐田哲也の『麻雀放浪記』や親父モノの私小説郡と同じくらい、俺はつかまれました。そっちの感想はまたあらためていずれ。)


根本的な不平等がどうにもならないならば、それを前提にした世渡りや幸福感、そして倫理を、俺たちも考えなければならない。
町山さん自身はそんなこと一言も言ってはいないけれど、最近の町山さんの論理を見ていくと、結局のところ「正義=弱者の味方」ってことになると俺は思う。
だけど町山さん、本当に弱者の味方なの?
ブッシュやネオコンは横暴な強者だとして、ムーアや町山さんは強者なの?弱者なの?
俺なんかから見ると、あきらかに強者ですな。
レトリックの技術といい、気の強さといい、趣味人としてのセンスといい。


おそらく今、かなりの読者が「そんな強者、弱者の二分法は不毛だ」と思ったでしょう。
俺もそう思います。
でも、町山さんのように「強いヤツの横暴を叩くのが正義」っていうのをやってると、正義のために、常に弱者を探し回ってなきゃならんってことになってしまう。


いや、それはいい。
どんな社会状況下だって必ずこぼれ落ち、阻害される弱者は出てくるし、また本当の弱者っていうのはみすぼらしかったり、汚かったり、不遇で性格捻じ曲がってたり、まさに半分自業自得の嫌らしさを抱えてるもの、「だからこそ」敢えてそちらの側に立ったり、フォローしようとするのは、とても大切で尊いことだと思う。
そして、だからこそ、ハンパなヒロイズムじゃとてもつとまらない。


だから、人は往々にして「自分に都合のいい」弱者や悪者を探すようになる。
そして、場当たりで悪を指差し叩くことで正しくなった錯覚をするうちに、自分と厳しく向き合うことを忘れる。
そして「正義」「弱者の味方」であり続けたいために、自分自身の利己心や加害者性、強者性を正当化、合理化せずにはいられなくなる。
ブッシュは利己的な強者であるとして、じゃあ自分はどうなのだろう。
「自分くらいのエゴは調度いい」なんて合理化、正当化の仕方をしているとしたら、それはブッシュのような分かりやすい悪よりも、俺はずっと根深い問題だと思うし、それこそが真の弱者を排除する発想の根本だと思う。


マイケル・ムーアも町山さんも、従来の古臭い左翼、ラディカリズムと混同されないよう、とりあえず今回のイラクとの戦争についてのブッシュの嘘とごり押しの責任追求、ってところに、攻撃対象を絞り、限定している。
それは、それでいい。
俺ははっきりいってアメリカのことはよくわからないし、だからドキュメンタリーとして恣意的でどうなのか?なんてことはよくわからない(本音を言えば、どっちだっていい。その辺は専門の人がしっかりやってくれればいい)。
ただ、明らかな強者の横暴な暴力、その前になすすべの無い弱者、被害者に対して、法や社会が無力である時、プロパガンタだろうがなんだろうが、ルール違反を犯すリスクを引き受けてでも、これを止めようとするような人を認めるし、尊敬する。
例えば、薬害エイズ運動の時の小林よしのりのように。
穏当な現状認識、自己認識だけでは、どうにも状況が動かないってことは往々にしてある。
そしてその上で、悪や強者を叩くことで、自分が正義になったと錯覚している、自分自身が煽った人たちに対して、ちゃんと「それ自体が正義であるわけではない」ことを、町山さんは解毒することができるだろうか?
あの時の小林よしのりのように。
岡田斗司夫氏の批判に対しての煮え切らない応対を見ていると、どうも望み薄という気がするけれど。
あの批判が直に町山さんを指していると、(処世上)岡田氏が明言しようがすまいが、あそこで書かれている批判対象は、あきらかに町山さんに代表されるものだと僕は思う。
町山さんが、この批判を受け止めることなく曖昧に合理化してしまうような、遠くの巨悪やシロウトの批判には問答無用で威勢がいいが、自分の属するオタク世間内の意見対立にはてんで弱い、保身的なヘタレかどうか、今後の動向、一ファンとしてしっかり見させてもらいますよ!


例えば、上で取り上げた笠原和夫は、

戦後の映画や小説、テレビなどで、狂気染みた愛国少年軍国主義者が登場したり、反対にイミシンな反戦平和論者が良い役で描かれたりしているが、そのどちらも日常社会のなかではひとりとして見たことはなかった。悪役として扱われるような軍人や憲兵といった存在も知らない。みんな虚無的に沈んだ穏やかな人々であった。

民衆はむかしもいまも、自分たちの日々の暮らしだけを愛し、信じ、その余のことはお座なりに遣り過ごしていただけであった。

だからこそ、昭和二十年八月十五日の敗戦と同時に一斉にマッカーサー元帥を憧憬し、ゲリラの抵抗などただの一件も起こらなかったのである。

と、戦中戦後の世相を振り返り、そこから屹立しようとした自分のストイシズムを、

「神聖・清浄と不浄とは同じものの二面性を示す関係にある」(波平恵美子著『ケガレ』の中のメアリー・ダグラスの言葉より引用)。人が生きていくエネルギー「気」は「ケ」で不浄である。「気」が疲れたとき「気枯レ」、その賊活行事として「ハレ」の神事が催される。清浄はそのときでしか役に立たないものなのだ。私は身辺の不浄から逃れようとするストイシズムを憧憬したが、結局は不浄から逃れられず、それゆえにこそ生き残り得た。「死」を包むエロスの甘い香りは、もう嗅ぎたくない。

と、総括する。
しかし、その一方で、

「結局、突き詰めて行けば犬死であろうと何であろうとね、戦争に駆り出された連中が無力だったんですね。要するに抵抗ということをしなかった。特に日本人の場合、これまた天皇制によるものなんだけど、明治以降、お上に対して抵抗するという努力をしてないんですよ。確かに共産党はありましたけど、これまたコミンテルンの視点に基づいてチョロチョロやってるだけの話でしょ?自分のエゴイズムに基づいてもかまわないから、国民大衆がきちんとした抵抗をして、なおかつ戦争に駆りだされたのであればまだしもね。(中略)だから、犬死なのか、犬死じゃないのかという論議はナンセンスですね」

「けれどもみんな、戦争中のことを忘れていますな! 天皇の名のもとに、どれだけの人間がぶん殴られ殺されているのか、ちゃんとわかって言ってるのかと。そして天皇はちゃんとその責任をとってるのかと。とってない!それからそういうものを後押ししたジャーナリズムが、きちんと清算しているのかと。してない!朝日新聞なんて戦前は軍のために大宣伝やっておいて、それで終戦の時には、「みんなで反省しなければならない」なんてね。何、言ってるんだ、テメエが一番反省しなきゃならない。で、新聞社で腹を切ったやつはいますか?一人もいない! あれだけ軍のお先棒をかついでだよ、翌日から知らん顔で民主主義だとか何とか言ってるわけだからね。しかも戦後、民主主義だ何だとか言っておきながら、天皇の問題をまともに追及した新聞社、出版社なんていうのがありますか?ひとつもないんじゃない?」
『昭和の劇』472、496ページより

と、苛立ちもまた隠さない。


これらすべての振幅の中に彼がいて、状況の中での自分の心の動き、そして自分ができたこと、できなかったことを、屈託とともに誠実に引き受けて検証しようとしているからこそ、僕は彼が信用できる。
町山さんのようにやってると、対処療法としての実効性はともかく、「正しさ」や「論争」の快感のために、自分自身を省みない連中ばかりが元気になっちゃう気がする。少なくとも、日記のコメント欄を覗く限りでは。