もう一つ追加

あと、narkoさんが「正しさにあぐらをかいた」団塊世代批判を書いているけど、彼らの大方の正しさって「場の空気」「時代の空気」ってことでしかなかった。だから、6、70年代に反体制気取るのも、その後のバブルな生き方にも、根本的な転向はない。「場の空気」に引っかかり、動かさなければ状況は動かないけれど、場の空気に引っかかること自体が目的になってるのが、今の表現者も知識人も一律に陥っている病。消費者様、大衆様に気に入られなきゃ何もできないから、彼らを批判できない。そこをすり抜けて、場を信用せず、思想的に大衆をあてに依存せずに、いかに彼らに引っかかり動かすか、そして暴走させないか。そして、それをクールに全うできる自我を、俺たちが何を支えに己に培えばいいのか。ここが、今いちばん考えなきゃならないところだろう。


オタク第一世代の昭和30年代再評価っていうのは、もちろんノスタルジーって側面もあるけれど、今、ようやく昭和が客観視が可能なくらいの過去になったため、という本質的な部分もある。
例えば8、90年代に「火垂るの墓」や「おもいでぽろぽろ」が公開された時、消費社会で寄る辺なくなった人間を脅迫したり、付け入ったりして、左翼がオルグしてるってふうに糾弾されたけれど(実際、有機野菜食ってる金持ちが、コンビニやドンキを利用する庶民を蔑むような態度は最低だと思うが、一方批判派も「となりのトトロ」の欺瞞性にはまったくスルーだったりした)、消費社会対旧共同体もしくは左翼って二択じゃなく、消費社会の中でただ受身でなしくずしに流されるんじゃなく、自分なりのスタンスで距離を取り生活を作るような能動性は大切だと思う。そのためのヒントを、いい気な金持ちや趣味人に独占させておく手はないよ!


それに、この時代っていうのは、彼らの物心つく前、幼少期くらいの時期にあたって、記憶は強く残っているけど当時それが何かを意識できてたわけじゃなく、自分達に影を落としているその時代を再検証したいっていう動機があると思うし、確かにそれは彼らがやるべき仕事だと思う。
(それが、俺にとっては80年代前夜の79年ごろ、貧しさは消失したけれどかろうじて共同体の一体感は残っていた、歩行者天国に家族連れがあふれた時代。それが「探偵物語」や「太陽を盗んだ男」の時代で、これについては最近PANTA&HAL紙ジャケリイシュー盤のライナーに書いたんで、近々HPの方にUPします)


narkoさんも、ウザい、いい気なサブカルディレッタントみたいなのに囲まれて、自分の現実を置き去りにされてるような嫌な気分も味わったみたいだけど、見取り図として眺めるだけじゃなく、現物やその時代の人たちの体温を感じながらじっくり触れる機会があれば、どんな時代ものにでも学ぶべき点はあるよ。俺自身、自分が懐かしく振り返るよりもさらに前の時期のものに、触発されるものが多い。
そこは、心を開いた方が、絶対得だと思います。


「ジョゼ」についてはまた次回。