荻原魚雷さんに、福田恒存と平野謙による坂口安吾追悼文掲載の『知性』をいただく。

特に、福田恒存の、敢えて自分を思い切り幼く無防備な状態に置いて書いたような追悼文が素晴らしかった。

もともと坂口さんは人間のすなおなやさしさといったものを求めた人であるし、またそういうものを皆がじかに出しあって、傷つかずに生きていくことを夢みていた人でもあろう。ぼくが坂口さんのことをローマン派だと思うゆえんである。
坂口さんが伊東ににいた頃、二度ばかり遊びにいったことがあるが、そういう時にもすなおなやさしさにふれたいというかれの切ない気持を感じた。ぼくのような形式ばったつきあいのしかたには、いつも不満であったろうとおもう。たまに会うと、非常に嬉しそうにするが、すぐ退屈になるらしかった。

しかし人は、「すなおなやさしさ」を、ともすると甘えや処世術へとすり替え、そんな「誤魔化し」をしているお互いを意識しないよう取り繕い続けてしまいがちな程度に弱く、それゆえにずるくなりがちなものでもある。福田恒存はそのことに自覚的であり、また自分が「すなおな優しさ」を人一倍求めてしまうような弱さを自覚していたからこそ、「形式ばったつきあい」にこだわり続けたのであり、それが彼の「保守的な態度」の根幹であったと思う。
それでも、それをともすればフライングしてでも飛び越えずにいられないような、限界や欠点も込みの安吾の人格を彼は愛し、尊敬した。彼を信じ、愛するが故に、安吾に最後に贈られた文章は「すなおなやさしさ」に満ちている。


往々にして、すなおな優しさを求める者は、福田のような自省を煙たく窮屈に思いがちだし、一方で福田の言葉を出来合いの「模範解答」として信奉するような向きは、安吾のようなロマン主義的な心性を、スケープゴート的に目の仇にしがちなように思う。
福田はこう続ける。

ああいうすなおな人が生きていかれないということに、ぼくは文学というものがすこしおかしくなっているのではないか、すくなくとも、ぼくたちが文学だと思っているのが思いちがいではないか、というような気にならざるをえないのである。勿論坂口さんは自殺ではないが、元来健康だった人があれ程からだを痛めつけたということ、また読者へのサービスにほかならないここ数年の仕事に、うつろなさびしさもあったであろう−そういうことを考えると、現代文学が作家をどんなに苦しい立場に追いこむかということについて、いろいろ考えさせられるのである。


今でも、というよりも昨今は尚更というべきか「無頼派気取り」ということが常套句のように揶揄の言葉として使われているのをしばしば見かける。繰り返すけれど、ロマン主義が陥りがちな無自覚や甘えに対する自省や警戒は大切だ。けれども、すなおなやさしさを求め、またそれがそのままでは現実に存在できないことに対する悲しみを感じていない人を、僕は本当には好きになれない。それが僕の人間の好みの狭さであり、また文学観がそのことのみに規定されてしまわないよう自覚的であろうとは努めているつもりだけれど、同時に今、自覚が難しいほど状況(特に物書きになるようなタイプの人間界隈の)に支配的に溢れかえっているのは、ロマン主義的な心性ではなく、それを頭から許容、共感できないような、そして無言のうちにやんわりと遠巻きにし、排除してしまうような、意識されざる世界観、許容量の狭さの方だとも、はっきりと思う。