色川武大『私の旧約聖書』より

「私も、以前から、こういう形の歴史小説を書いてみたいと思っていたのです。力不足でまだ手がつかないんですが、まず、天災だとか疫病の流行があって、人口が減ってしまう。すると、産めよ増やせよ、というスローガンで、人間が生産される。そのうちに、人口が増えすぎて、間引きが奨励される。ところが、また天災だとか戦争だとかがあって、産めよ増やせよ、という逆のスローガン。
増えすぎると間引き、減りすぎると増産、この反復が性懲りもなく、というより必然的に長く続いている、これも歴史というもののひとつの現わし方だと思うのですが、ただ、そのアイディアだけでは、なんにもなりません。
作品として完成させるためには、一言ですむアイディアでなく、本来の歴史が持っている恐ろしいほどの長い反復性を延々記述しなければ、歴史の存在の重みが出てきません。旧約を読むたびに、溜息が出るほど感心するのは、その記述の内容もさることながら、呆れかえるほど続くその反復性なんです。
神を必要とする時点。
神をそれほど必要としない時点。
但し、この二つが単純に反復しているわけでもないんですね。まァ俯瞰して見ればただのくりかえしに近く見えますが、同時に、持続、ということも見逃すわけにはいかないのです。なんだか愚かに反復しながら、それでも断ち切れないで続いているというエネルギーですね。
エジプトを出てから愚かな犠牲者がたくさん出て、そのたびに手ひどく殺され、ついに全員荒野で死んでしまう。モーゼさえカナンの地を踏めない。それでもなんでも、孫子の代にはカナンの地で、たくさんのイスラエル人たちが定着してしまうのですから。
イェホバ氏の大わらわの奮闘もさることながら、こういう人間の根強さは何だろうと思うのですね。今日の我々の時代まで人間の歴史が続いてきたからそう思うだけで、明日はわからないし、また必然的にいつかは消え去るのでしょうが。
けれども、旧約の民衆の姿を眺めていると、イェホバ氏でなくとも頭を抱えたくなりますし、我が身にそっくりダブッていることを承知で、こんな人間たちがよく持続していくものだと思うのですね。
私は(まだ)それが神の力だというふうには思えません。
むしろ、この書物を読んでいて、人間の力の方を感じてしまうのです。
大分以前にヨーロッパのカジノを渡り歩いておりました時分に、意外に思ったのは、ヨーロッパのどの国でも、人々が、交通信号をあまり守っていないのですね。自分の判断で安全だと思えば、赤でもさっさと渡ってしまいます。西洋は規範の国だという概念とは矛盾するのですが、その微妙な矛盾が、また実に人間の根強さを現しているとも思って、印象に残っているのです」
色川武大『私の旧約聖書

高度成長この方、多くの人があまり神を必要としない状態が続いていたのが、このところ俄かに神を必要とし始めているのかもしれない。
だとしたら、自分の中の矛盾を大切に、しぶとく勝手にはみ出していきたい、いかなければとも思う。

沈黙と、保身と、ルサンチマンと。

ここ数年の急激な世相や流行(輸入)思潮の変転の中で、安定した世相の中では盤石な権威のように見えていたサブカルの神々たちが、様々に馬脚を現してしまった。自分もそのいくつかを批判してきたけれど、僕程度の影響力微小な者の批判でどうこうということもなく。自分のやっている程度のことは他の人間もやるという体で、彼等自身が自己矛盾を露わにしたところを批判されて自ら信頼を失って行った。
しかし、彼等を奉じていた人々に、自分が凭れていた神を批判(否定)されたという遺恨だけは蟠り、それは、自我が強く独自に考え動く者、和を乱す者への無言の反感としいう形で淫靡に残ってしまった。
自力で立っていなかった者が、拠り所を失ったからといって、急に自立できるものでは無いのだ。

自分の問題に他人を従属させようとする、正義の顔をした図々しさ

中上健次が、実は同和利権で太った実家の潤沢な仕送りを受けていた…なんて揶揄は、本当は揶揄にさえなっていない薄っぺらでつまらないものだ。彼が、上京してモラトリアムしていた戦後の子だったことは初期短編で自分で書いているテーマそのものだし、土着的な共同体の桎梏に苦しみながらも、それが彼自身の根にもなっていて、実家や実父の土建業者による高度成長期の開発で、それか失われていくパラドックスまで長編で書き継がれている。本気で批判するなら、せめて作品くらいちゃんと読めよと思う。

問題のある父親を結局は好きな向田邦子のエッセイの呪いのせいで、毒親を持った女性の書き手は云々なんてのも、自分と他人の区別がついていない甘えたヤツの情けない言いがかりだろう。彼女は彼女、あなたはあなたにとって切実なことを書けばいいんだ。自分の問題に他人を従属させようとする歪んだ権力欲は、はっきり退けたい。

無傷な正義を信じ込める者の傲慢について

古い知人と決裂したきっかけは、ある批評家が彼女たちが注力している問題があまりにクローズアップされ過ぎ、他の更に重要な問題を覆い隠すことになっていることになっていると発言したことについて、糾弾しようとする彼女たちに僕が反対したためだった。
今年に入ってからも別の同業者が、素行や思想に問題のある作り手の作物は見たくないとして、作品のボイコットや、作家の業界からの追放を呼びかけていることに反対した為(そして、その運動に加わることを拒否したため)、絶縁されてしまった。
人は誰でも間違うし、誰をも傷つけない無傷な立場や発言は無いのだから、批評や批判は自由に為されるべきだと思う。
ただ、批評する自分の考えだって無傷でないのは同様だし、一大事が何かという優先順位も人や立場によって異なる。前提を共有しない、立場の違うものに対して問答無用とならず、理路を説明する努力が必要だし、その中で立場にどれだけの普遍性があるかも自省され、検証されていくべきだと思う。
こうした懐疑を厭う、強硬で怠惰で傲慢な言動が、今は幅を効かせ過ぎていると思う。

そして、粘り強く懐疑するためには、間違わずには生きられないという覚悟と、それを他者にも許す留保が必要になる。

「性的媚態」「性的搾取」批判の牽強付会が息苦しい

ジャニー喜多川氏の具体的な性加害への批判はともかく、ジャニーズアイドル的な存在が、性的媚態であり強者や権力に媚びているから駄目な文化で、けしからん社会悪、政治悪だと断罪するのは牽強付会が過ぎるし、それ以前にナイーブ過ぎるだろう。
何だか、つい最近まで男色を汚れた頽廃文化だと断じ喧伝していたのに、一転LGBTを絶対正義のように啓蒙するピューリタンの極端さの似姿(コピー)のように映る。
性的(なものに限らず)媚態に対する快不快は人によるし、芸能に限らずそれを抜きにした人間関係などあり得ないことは、自分の胸に訊いてみれば誰もが思い当たるだろう。そこから自分がまったく無縁、無傷だと思えることこそ傲慢な無神経なのではないか。
性的な強弱とか、支配被支配の関係も、一元的に固定したものではなく、性的媚態が(面従腹背のふてぶてしさと共に)むしろ弱者の武器であることだっていくらでもある。
批評、批判するにしろ、そうした複雑さを捉えるものでなければ面白くないし、粗雑、大味に規範化だけしようとする風潮は野暮で息苦しいだけだ。

 

「戦後教育はヘンに抽象的な民主主義を学童に鼓吹したものだから、すぐ「ありのままの自分を認めてほしい」と言う。神様でない限り、「ありのまま」の他人など理解出来るわけがない。民主主義とは「認める」ことではなくて「相争う」ことである。「争う権利」が平等にある、というだけだ。一票でも多くの賛成者を得た者が勝ち、負けた者は認められないまま我慢しているか、余所の土地に去らなければならない。(…)
本来、民主主義も自由も、アメリカのように空間的にも物質的にもプレンティ(豊富)であることを大前提に成り立つ制度であり、狭い日本列島にそんなものを持ち込むから、逃げ場がなくなって虐めや学童の自殺が起きたりする。この悲劇を解消するには、尻尾を振って味方を増やすしかないのだが、先生も親も「よく話し合えば分かるはず」と称して、尻尾の振り方を教えてくれない。話し合ったって嫌いなやつが好きになれるわけなはないのだ。
民主主義が入ってくる以前(戦前)の日本は、ひと皮もふた皮もかぶった連中のお愛想、おべんちゃら、お追従、ヨイショが身辺に渦巻いていて、寄席で落語を聴けばこれまたのべつまくなしの上げたり下げたりのお笑いだから、尻尾の振り方が日常茶飯のこととして知らず知らずのうちに身についた。それもただ尻尾を振りゃあいいというもんじゃない。周囲の目に立たないように、相手にそれとなく伝わり、自分のプライドもチラチラと覗かせておく、という技術が必要だ」
笠原和夫『「妖しの民」と生まれきて』

眠気覚ましの散歩と長谷川伸

相変わらず眠ダルさが抜けず、かといって日々のライスワークは待ってはくれないので、眠気覚ましに散歩ばかりしている。そして、古本屋の均一台に引っかかっては、少しずつ積ん読本が増えていく。活字を追っているとすぐに瞼が重くなって、なかなか消化できない。
今日は盛林堂書房にて、均一台ではなく店内に長谷川伸の戦前の単行本が数冊並んでいるのを発見。小説はさすがにそれなりの値が付いているけれど、作家初の随筆集『耳を掻きつつ』が自分のような者にも手の届く安価で、迷わず購入してしまった。未文庫化なのに加えて、装丁や旧い活字に発表当時の時代の息吹を感じて嬉しい。
長谷川伸の文章は、文体も内容も、一見そっけないくらいさっぱりとした書きぶりだけれど、そこに逆に恥じらいと芯の強さを感じて気持ちがいい。この世には思うに任せない辛いことの方が多いことを身にしみている書き手が、それを当然事として大袈裟にならず差し出すから、同様の気持ちの読者が安心して気持ちを預けられたのだろうと思う。

地上波テレビの黄昏と狭まる偶然性

5時に夢中でマツコが、テレビの悪影響が云々とこう五月蝿く言われる風潮だと、地上波で面白いドラマやバラエティをやるのはもう限界なんじゃないか、全部YouTubeやネトフリのような形にアーカイブして、新作もそこで変な制限抜きに作るのがいいんじゃないか(だから、この番組も率先してやめてしまおう)と話していて、その通りだと思いつつ、どこか割り切れない気持ちが残った(彼女自身の語り方にも、反語や諦めや開き直りのニュアンスが含まれていたと思う)。
現に、地上波放送を殆ど見ていない自分が今更そう思うのは、偶然見始めた『らんまん』にハマっているからだろうか。
それだけでなく、自分の感性の基盤を作ってくれたのは、夕方のテレビで毎日たれ流されていたアニメやドラマの再放送や、その中にどさくさに紛れて放り込まれていたザンボット3やガンダムのようなゲリラ的な新作だったという思いが強いからだ。
自分の嗜好がはっきりしてから求めて見たり、様々な文化を選び触れるような環境がまだ無かった中、事故のようなそれらとの出会いはとても大きなものだった。
今は、様々なものに出会う為のチャンネルが増え、子供たちも僕らとは比べものにならないくらい(むしろ過剰なほど)その扱いに長けていて、そんな心配はいらないのかもしれないけれど、さっきの本屋の話では無いが、思わぬ偶然の出会いが失われるというのは、どうも人の視野を閉塞させてしまうんじゃないかという気がしてならない。
或いは、テレビが今のAMラジオくらいに過疎化して緩くなれば、別の可能性が生まれてくるのかもしれないが。
自分の今の『らんまん』の見方なども、そちらに近いのかもしれない。