「心でっかち」は鈍感で傲慢だ

自分の気持ちにだけセンシティブな人たち、心でっかちな人々の鈍感さ。傲慢さ。
人は他者をとことんのところで理解することは出来ない。当たり前だ。誰もその人の人生を生きたり、肩替わりすることなど出来ないのだから。
誰でもない、何者でもない私の感情。それはそうなのだろうけれど、それをひとまず言葉にしたり共有したりする時には、不定形で捉えがたいものを無理にも形にしてみるより無い。形になれない残余は当然あるけれど、それは他者にも、自分にさえ捉えられない。
そして、捉えきれないことをやつ当たりする時、繊細なつもりの彼等は、簡単に紋切り型になり、粗雑に他者を定義して安易にスケープゴートにする。
まったく繊細どころではない欺瞞だと思う。

それは、繊細な被害者を装った、水膨れの選民意識でしかない。

他者から理解不能な状態で、尚且つ好意的にそっとしておいてもらえるのは、それこそ特権的な立場にある者だけです。
大抵の者は、空気のように黙殺されて孤立するか、積極的に(暗にも)差別、否定されるか。
自分の立っている場所への反省を欠いた者は、そんなふうに平気で傲慢、残酷だ。

性自認についての自分の考え方をもう少し。

人は誰でも、男でも女でも、内心には男性的な要素と女性的な要素が両方あって、混沌と混じり合っているものだと思います。男性的、女性的というのをはっきり定義しようと思うと難しいですが、例えばザドの人はマゾの要素を、あるいはマゾの人はザドの要素を内心に内包していて、そこをわかりあっているから、互いに役割を演じあって行為を楽しみ、心を通わせることができることと同じように。その偏りや濃淡によって演じたい、演じるべき役割も違ってくるから、向かない役割というのはあると思いますが。
そうやって、周囲の人との関係の中で自分の性質や偏りを確かめて、演じるべき役割を掴んで、それぞれの男らしさ、女らしさを育て、掴んでいくものだろうと。
だから、男らしさや女らしさの根拠を、恋人とか、父母、兄姉、弟妹といった関係や立場から切り離して、内面にだけ見つけようとすると、どんどん混沌としてくると思います。自分らしさというものが、自分を見ているだけではわからないのと同じように。
若い頃は、そうした経験の蓄積が乏しいから、自分らしさがはっきりせずに混沌と不安定なのと同じように、性的にも未分化で混沌としているものだと。
男らしさにせよ、女らしさにせよ、ちゃんと自分に似合う形で演じることには相応の時間と試行錯誤が必要だし、自分のことを自分の思いたいようにはなかなか周囲は扱ってくれないように、男や女になっていくことにもそれなりの痛みは当然ある。かといって何者にもならなければ自分も不安定だし、周りも危なっかしくて触り難い。男らしさにしろ女らしさにしろ、そういう過程を乗り越えて、だんだん馴染んで慣れていくものだと思います。無理のない自分の在り方を、無理し過ぎずに許しあえるような相手を見つけていくことも含めて。
そういうことをすべて抑圧としか思わずに、否定したり避けたりだけしていたら、人は生きるすべや、役割を演じあうことによって関係していくすべを失くしてしまうんじゃないか、というのが自分の考えです。

「人は結局自分の思いたいように思っていればいい」を法律で後ろ盾てしまうことの問題

性自認主義(を法的規範に組み込むこと)の何が問題なのか。
「人は結局、自分が思いたいようにしか思わない」こうした気分や認識は、どんどん僕等の中に大きくなってきている。
しかしかといって、自分の思いたい自分、思いたい現実を、他の者もそう思うとは限らない。自分の意識や欲望だって、他者や周囲がどう思い考えているかに大きく影響される、あやふやや不安定を相当に含んでいる。だから本当は「自分の思いたい」こと、つまり自分の内心だってなかなか自分の自由にはならない。自由を拡大するということは、そうしたあやふやで捉えがたい部分の割合が、自分の人生の大きな部分を占めていくしんどいこともある。だから、人は自分を規定してくる限界や枷、生まれ持った身体条件や能力、資質といった自然や、社会などの環境といったもので自分(の世界観や認識、生きていく方向)を支えてもいる。それに逆らい、よりよく生きたいと思うことも人の本性だけれど、そうした自分を律してくるものとの葛藤無しに、自由の切実さも輪郭を持たない。
自分を制限してくる外界や他者も、自分の輪郭を形造る大きく重要な要素であるということ。この前提を丸ごと忌避し、否定しようという方向、「思いたいように思えばいいし、他者や社会もそれを全面的に認めるべきだ」という方向は、自分の、人間の、生きることの輪郭を失くし、混沌と虚無に追いやってしまうことでもある。
「思いたいように思えない」条件こそ、確かな自分でもあるのだ。
「思いたいように思っていい」を無制限、無警戒に法的に後ろ盾てしまうことは、大きな混沌や混乱に人を追いやる怖いことだというこの認識が、枷からの解放をただ礼賛する人々や思想には、大きく欠如していると思う。

最後に付け加えると、自由の保証を過度に法律に頼ること(あなたまかせにしてしまうこと)は、自分がどうしても守り抜きたいもの、捨てられないもの、他者と争い何かを犠牲にしても優先したい欲望を確認する過程、自立と他者への仁義を育む過程を、奪ってしまうという危惧を、自分は強く持つ。

 

性自認について自分の考え方をもう少し

https://bakuhatugoro.hatenadiary.org/entry/2023/05/13/193710

に続く。

結婚と家族をめぐる政治的対立に思うこと

少し長いけれど、結婚や家族に対する、左右の対立に思うことを纏めてみた。

僕は今も単身者だけれど、自分は変わり者で、ちょっとハズレた生き方をしてきたから、かなり特殊なケースだとずっと思っていた。ところが気が付くと、いつの間にか世の中に中高年の独り者がまったく珍しくなくなっていた。
一人一人がプライベートを大事に生きるようになると、家族や子供に一生のうちの大きな時間を割くことが億劫なような気持ちになることは、ある意味自然な流れではあるだろう。ただ、多くの人は、好んでプライベートに執着したり、人を億劫がったりしてはいるけれど、内心は覚悟なくなし崩しにそうなっていたという面が大きいのではないかとも思う。はっきりと結婚しない、子供を持たないと決めていたわけではないから、いつの間にかの現在に、不安や後悔を何となく引き摺る人も多いのではないかと感じる。だから、どこか厭世的にもなっていたり。自分の人生が、自分だけで終わって途切れてしまうのだから、それも当然といえば当然だと思う。

この現状が虚しく思えるなら(或いは上の世代を見て、自分たちはこんなのは嫌だと思うなら)、孤独のリスク付きの自由よりも、パートナーや家族で暮らす不自由を選んでもまったく構わないと思う。

ただ、僕が現在の、結婚や恋愛、或いは家族を語る議論を見ていてよくないなと思うのは、それぞれが勝手に生き方を選ぶことを許さず、特定の方向を正解として一般に強制しようとする声が大きすぎることだ。
ネットは特にそうだけれど、今は政治や思想の世界では、そうやって男女がいがみあう声が、どんな社会問題よりも激しく熱を帯びて叫ばれているように思う。
一方は、個人の自由を最優先する生き方(をしている自分たち)を肯定したいから、それを正義として主張し、家族を基本的に旧弊な悪だとする主張。もう一方はこれに反発し、家族や結婚は、本来幸福の基本であり常識であるとする主張。
前者を叫ぶ人たちが、いわゆる左翼やリベラル、フェミニズムの人たち。対して後者はそれに失望している若い世代や貧困層(彼等自身がそれを選んでいるわけではないけれど、自民党などの旧来の家族観を主張する政治勢力や、統一教会の主張と結びつけてマスコミなどでは喧伝されがちだ)。
そして、僕自身の考えを言えば、まず前者の人たちが、自身の家族に対する被害者意識や、個人的に生きることへの権利意識への執着から、家族や結婚を否定するかの強硬な主張をし、広く押し付けようとしていることを、良くないなと強く感じている。彼等一人一人は、自分の家族関係に傷ついてきたり、単身者であったことで差別を受けてきたという思いもあるのかもしれないけれど、それを一般論に拡大して、結婚や家族に居場所や幸福を求めることを強硬に否定しようとすること、そのために、極端なジェンダーイデオロギーを叫ぶようなことは倒錯だし、逆にそれが階級的差別の温床のようにもなってしまっていると感じる。
一方後者は、前者のような主張がはびこると、結婚しようにもパートナーがいなくなってしまうから、当然これを嫌がる。そして前者が強硬である程、反動で旧来の結婚観や家族観をやはり強硬に主張して、個人に対して排他的になるようなことも起こっている。それが、急進的にネトウヨのような姿勢に結びついたりもする。それが、広く一般の傾向にまでなっているとは、僕は思わないけれど、左翼やフェミニズムがこれを敵視しタブーにしようとしすぎたり、男性への要求や規制を拡大していたずらに恋愛のハードルを上げてきた為に、現にパートナーを得られず、結婚できない事実と相まって、より焦りや反発が増していることも確かだと感じる。強引に家族の問題点を統一教会と結びつけて語ろうとするような左派勢力やマスコミの姿勢が更に対立を激化させる。
しかし現実は、誰かの意図や思想によって家族が解体しているというよりも、それぞれがプライベートの時間や趣味を大事に生きるようになった結果、他者が遠ざかってしまったという必然的な流れが、すべての大元にある。まず自分のそうした現実と傾向を直視して、もしそれが行き過ぎていて、自分の人生や幸福を損ねていると感じるなら、互いにプライベートの自由の部分を譲歩しながら、結婚や家族づくりの敷居を低くするよう、個々の事情の中で意識を変えたり、努力していけばいいと思う。
他方、女性の社会進出が進んだせいで、結婚が出来にくくなったなどと、それを封じようとするのもまた、まるで間違いないでは無いまでも、一方的で行き過ぎた倒錯だと思う。現在は既に、男でなければ務まらないような職種の方がわずかになって久しいし、経済的にも共稼ぎでないと、互いに満足できる生活を維持できないというのが大方の現実だろう。その事実の上に、出産や育児に関する男女の条件の落差もあるのだから、それを直視しながら、共に働く各々の事情を配慮し、出来る範囲で調整、支えあっていくべきだろう。男女差も個人差も事情が不揃いなのだから、男女の社会進出が完全に一律平等になることもなかなか難しく、必ずしもそれが良いとも言えないだろうけれど、共稼ぎの現実がある以上、なるべく行き届いた配慮を持つべきだろう。
非現実的に、却って歪みが出るほど、原理的に平等が主張されすぎても困るが、逆に女性の社会進出を嫌うのも非現実的観念論だと思う。
家族は悪であるとか、逆にある家族の形だけを標準として他の事情に狭量になるような、特定の思想を極力介入させるべきでないと、強く感じている。
一人一人は、ただ自分の都合や希望だけを個人的に引き受けたり、提出することがなかなか不安だから、どうしても後ろ盾になる大きなもの(思想)を求め縋ってしまいがちだが、そのことによって逆に個々の事情が、政治や思想の対立に絡め取られてしまって、誰も幸せになっていないじゃないかと、最近強く感じる場面がますます増えている。

 

「自分の思いたいように思っていればいい」を法律で後ろ盾てしまうことの問題

https://bakuhatugoro.hatenadiary.org/entry/2023/05/12/162825

に続く。

 

砂粒の大衆たちの社会

本来すぐれて生活者であり、実務家だったはずの人々が、そうした自分たちの生き方や現場が稀薄になるとともに、メディアによる情報や思想的イメージに左右されるようになっていることこそ、由々しいことだと思う。

同業のとある先輩に、「大衆批判というのは、つまり近代知識人批判のことなんです」という説明をした時、「その知識人というのは、具体的に誰のことを言っているんだ!」と、予想外の強い反発が返ってきたことが印象的だった。彼はサブカル系の雑文を書くことを生業としてきて、個人的にも思想や人間観について意識的に思索を重ねてきているわけでは無いことが会話から伺えたから、そういう彼のような人でも、そんなふうに知の権威を聖域のように思い、凭れかかっていること(同時に庶民大衆一般を同じ強さで軽蔑していること)に驚いたし、ショックだった。

 

念のために付け加えれば、彼のような人こそが、僕の批判する大衆(知識人)そのものなのだ。

「為にする議論」「ポジショントーク」は結局不幸への道

「為にする議論」「ポジショントーク」というのは、立場によらず結局害毒の方が大きい。
自分たちがやるくらいのことは、必ず相手もやる。
お互いに「自分だけが正しい」に固執して、良いことは何もない。

皆が「自分だけは正しい」をやっていたら、結局、声の大きい多数が勝つというミもフタも無い結果にしかならない。
強者が勝つのは人の世の摂理としても、「正しいから勝った」となれば、疑うことさえ禁じられてしまう。

これが、全体主義が生まれるメカニズム。

酒井順子『日本エッセイ小史』

院の待ち時間に、酒井順子『日本エッセイ小史』を。
「しかし『金魂巻』では、マルビの女子大生が「バイトで買ったバレンチノのバック」を大事に抱えている姿をヘタウマのイラストで描かれていたからこそ、読者は安心して笑うことができました。格差をレジャー感覚で楽しむ強さと鈍感さが、この頃の日本人にはまだあったのだなぁと、思います」
「ゴム製品を使わずに買春をする吉行は、いつも性病に怯えています。ある時、心配な症状が現れたのでシモ関係の主治医を訪れると、検査の結果、悪さをしていたのは性病の菌ではなく大腸菌だったことが判明。ホッとはしたものの、
「私は内心甚しく赤面した。その数日前に、私は男娼と寝ていたからである」
との文章で、サゲ。
今時の男性物書きや、伊丹十三系エッセイの書き手には、決して真似することができないであろう、この「私」の開陳ぶり」
タモリの顔はなぜ気持ち悪いのかから田中邦衛のもみあげ評、大平正芳首相(当時)の田舎っぽい顔についてまで、忖度ゼロで好き嫌いの直感を、披露したのです。今だったらルッキズムなどと言われかねませんが、テレビは良い・悪いで評するものではなく、好き・嫌いで分けるべき対象なのだ、という意識が、そこに見えるかのよう。そんな森茉莉の感覚は、八十年代に充満していく軽みを、的確に捉えていました」 
一見フラットな紹介の体で、自分の立場を玉虫色の安全地帯に置く書き方を、自分は本来好きでないのだが、誰もが規範や権威を盾に取り、他罰的にいい子になりたがる神経症的なこのご時世においては、女性らしいミーハーな軽みと人を喰ったこまっしゃくれぶりに、狭いところに入り込むことのないしぶとい自由と頼もしさを感じている。
そしてそれは、定義曖昧で幅の広いエッセイというジャンルを愛読してきた愉しさに、しっかりと裏打ちされているとも。
つまり、本書での彼女自身の態度もまた、何にも頼らず詩人の魂(感性)に賭けるエッセイストのそれだと思った。