性自認についての自分の考え方をもう少し。

人は誰でも、男でも女でも、内心には男性的な要素と女性的な要素が両方あって、混沌と混じり合っているものだと思います。男性的、女性的というのをはっきり定義しようと思うと難しいですが、例えばザドの人はマゾの要素を、あるいはマゾの人はザドの要素を内心に内包していて、そこをわかりあっているから、互いに役割を演じあって行為を楽しみ、心を通わせることができることと同じように。その偏りや濃淡によって演じたい、演じるべき役割も違ってくるから、向かない役割というのはあると思いますが。
そうやって、周囲の人との関係の中で自分の性質や偏りを確かめて、演じるべき役割を掴んで、それぞれの男らしさ、女らしさを育て、掴んでいくものだろうと。
だから、男らしさや女らしさの根拠を、恋人とか、父母、兄姉、弟妹といった関係や立場から切り離して、内面にだけ見つけようとすると、どんどん混沌としてくると思います。自分らしさというものが、自分を見ているだけではわからないのと同じように。
若い頃は、そうした経験の蓄積が乏しいから、自分らしさがはっきりせずに混沌と不安定なのと同じように、性的にも未分化で混沌としているものだと。
男らしさにせよ、女らしさにせよ、ちゃんと自分に似合う形で演じることには相応の時間と試行錯誤が必要だし、自分のことを自分の思いたいようにはなかなか周囲は扱ってくれないように、男や女になっていくことにもそれなりの痛みは当然ある。かといって何者にもならなければ自分も不安定だし、周りも危なっかしくて触り難い。男らしさにしろ女らしさにしろ、そういう過程を乗り越えて、だんだん馴染んで慣れていくものだと思います。無理のない自分の在り方を、無理し過ぎずに許しあえるような相手を見つけていくことも含めて。
そういうことをすべて抑圧としか思わずに、否定したり避けたりだけしていたら、人は生きるすべや、役割を演じあうことによって関係していくすべを失くしてしまうんじゃないか、というのが自分の考えです。