武田百合子(談)「夫・武田泰淳の好きだった言葉」(1)

象に向かって吠える虎

無駄な抵抗はおやめなさいーこんな風に、武田は、しばしば私にいっていました。めんどうくさがり屋でしたからねえ。人生は流れるように流れていくんだよ、そんなふうな意味でこの言葉をいいたかったのかしら、事あるごとに、私に言ったものでした。
武田の目から見て、私は無駄な抵抗ばかりしているふうに映ったのでしょう。晩年、私のことを夫はトラとよんで、おかしがりました。映画の渥美清さんの寅とは違います。ああいう愛嬌のある寅さんではなく、四方八方、何でも吠え立てる虎だというのです。朝目がさめると、すぐに吠え立てて、何にでも吠える。それに比べて、自分は象だといいます。象は図体は大きいが静かな動物なんだ、ということなのでしょう。自分が象で、私が虎だなんて、少しずるいんじゃないか、と思ったものでした。
ところが、死んでしまって今考えてみると、象は墓場に向かって悠然と、とよくいいます。象は死期を悟ると墓場へ行く。途中で虎がたまたまこの象と出会って友達になり、本当は虎のくせに自分も象だと思って象と一緒に歩いていこうとする。象はゆっくり歩いても歩幅が広い。虎は象のように歩いて歩いてたんじゃ、一緒に行けないから、象の回りを駆けずり回っては、ハーハー息をはずませて寄るな触るな、とあたりにわめきちらしたりしていたのです。
自分は象で、おまえは虎だ。虎さん、虎ちゃん、そう私をよんだ夫の顔を思い出します。
象にとって虎が必要だったんじゃないか、なんてまったくわかりません。ただ小さなもう一頭の象が武田の後をついていくより、虎が走り廻っていたほうが夫にとって煩わしいけれどよかったのかもしれません。でも、武田が西へ向かって歩いていたのに、虎はそれを知らないで、やたらに足のまわりを吠え立てていたのかと思うと、つらい感じもいたします。
お葬式には、私の親類縁者は遠慮して来ませんでしたから、その場に居合わせた親族はみんな、武田と血の繋りがある人ばかりでした。娘の花ももちろんそうです。そのなかで私だけが他人というか、武田とぜんぜん血の繋がりがないわけです。私は武田とは他人だったんだな、と思いました。それはキョトンとした不思議な感じでした。象は虎さんをおいて、ずっと遠く西へ歩み去ってしまったのです。いまさらに、在の遊に憎かりき、という言葉を思い出します。
私は写真とか、遺骨とかにはあまり感傷的にならない性なのかしら。初七日を過ぎても、仏壇にお線香をあげて下さる人が絶えませんので、私も仏壇の前に坐っていることが多いのですが、武田の写真を見てても、さして感じるということはありません。だからお悔みを言っていただいて、武田さんもこんなにお骨におなりになって…と言われると、不謹慎かもしれませんが、キョトンとしてしまう感じです。私には一緒にいて死ぬまでのことのほうが、お骨になったことよりも重いのですから、仏壇の写真を見てても、父ちゃん、こうなったか、という感じで、写真そのものに感慨はありません。自分でも、未亡人が仏壇の写真を見て感じるのと同じように感じているなあ、と思ったりします。
何だか、そっくりさんの写真がここにあるという感じで、私の抱えている武田とは別という気がするのです。
武田は他人に死に顔を見せない、死ぬときは百合子だけ、それに花子がいればそれでいいと言っておりました。もともと諸行無常といっていて、霊魂は信じてなかったようです。仏教の極楽往生はあるのかしら、と私が冗談みたいにきくと、本当は死ねば物質で、火葬したあとは物質です、と答えていたものです。
だから、死ねば物質という感じで、写真よりも私の心の中につまっているもののほうがつやつやとして、重いのです。それで、仏壇の前に坐っていても、わりに明るくしていられるのですね。きっと。

夫との出会い

武田と初めて会ったのは、その頃私が勤めていた「ランボオ」という喫茶店でした。当時、ランボオという喫茶店に往き来している人のなかでは、武田は痩せて元気がないという風情の人で、今でいう中国の詰襟といった国民服を着ていました。そんな姿でモゾモゾ入ってきた武田を覚えています。特別ランボオの客の中で武田は目立つ存在でもなかったのですが、何か暗ァい感じがあって、恥かしそうにしており、うまく女に言いかけるのが下手な人、というイメージでした。
終戦直後には仙花紙のカストリ雑誌がいろいろ出ていて、椎名さんとか、いろいろな人が文壇に登場してきていましたが、そんなものを読んでいる暇もなく忙しくしていた私は、武田が小説を書いている人だということも知りませんでした。漢文の先生みたいという印象でしたが、何か切実な感じというか、惹かれるものがありました。私はどうも駄目でヤボな人が好きになる性なのかもしれません。
初めは私も武田と結婚しようなんて思いませんでしたが、武田と一緒にいろいろなところへ行きました。あのころは、終戦後のどさくさで、結婚してどうのこうの、というようなことを考える時代ではなかったのです。いまだと芝生があって、子供ができたらブランコをつけてと、マイホームの夢は広がるのでしょうが、当時、私の友達もずいぶんいましたが、そういう結婚を考えている人は皆無だったんじゃないかと思います。
私は小説を書く武田というのではなく、いろいろ私にご馳走してくれる人ということで、つきあっていたみたいです。そのころ、いいだももさんが「武田さんて、えらい人なんだよ。僕は好きだなあ」と店に来て、帰りがけに、ふっと私にいって下さったことを覚えています。いいださんは大学生でした。
私が働いていた喫茶店では、カストリ焼酎をおごってもらうか、チョコレートパフェみたいなものをおごってもらうか、どっちかでした。夜はカストリ焼酎をおごってくれたものですが、武田は昼間くると、チョコレートパフェをおごってくれました。アイスクリームの上にチョコレートがかかっているだけのものでしたが、全部、進駐軍製品で、今のチョコレートパフェとは違って、ずっと高級です。上にかかっているチョコレートがハーシーのチョコレートかなにかで、全部ヤミ製品だから、そのころ大変なものでした。それをおごってくれて、私がペロッと食べて、武田はカストリ焼酎を飲んでいる。
武田はしばしばランボオにやってきて、私に何か食べたい?ときき、私はチョコレートパフェと答える。そうでなかったら、三省堂の出店にある葬式まんじゅうと言って、全部、当時のいいものを、おごってもらいました。
特別に、おまえと結婚したいなんて言われたかしら、戸籍謄本を持ってきて見せてくれたりしましたが、私も当時、お酒をずーっと飲んでいる女の人ということで、本当に先のことなんて考えていなかったから、結婚をありがたく思うという感じはありませんでした。
ただ好きなものを女の私に食べさせて、自分は黙ってはずかしそうにカストリ焼酎を飲んでいる武田が、何となく好きになって、それから、二十五、六年一緒に暮してきてしまいました。その間、飽きっぽい私が飽きることなく一緒にいたのは、やっぱり好きだったんだと思います。
夫婦喧嘩もしましたし、こん畜生、と思ったこともありますが、そのつど、武田は計略がうまくて、いまになってみると、武田と暮らしていたことが面白かったなあとつくづく思います。

 

(2)に続く

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