村上龍についての覚え書き(Twitterでの会話から)

村上龍、新作で、自分はビリー・ホリデイは聴くけど、エラ・フィッツジェラルドやサラ・ボーンやアレサ・フランクリンは聴かないと書いているのが印象的でした。
彼女たちの音は周りに仲間が沢山いる感じがするけど、ビリー・ホリデイは独りだからと。
こういうことを、なかなか認められない人だと思っていたので」

「今も、自分を憐れんでいる感じはまったく無いです。相変わらず文章の中ではツッパッてるスタイリストで。
ただ、どうしても孤独になる自分の在り方を認めて、それを肯定している感じです。
1日誰とも話さないから、声が掠れてるなんて書いていたり。昔から、逆境の時の彼の文章には、そういう良さがありますね。『レイジングブル』が好きだっていうの、よくわかる」

村上龍って、あり得ないような理想的な美学やイメージに一体化したい人だから、憧れを映画で具体的に絵にすると陳腐になったりするんだけど、言葉ではそれを説得しちゃうんですよね。
多くの人は、現状肯定的、自己肯定的に生きたいから、そういう気張り方をあまり好きじゃなくて、彼がずっこけるのを待ち構えてるようなところがあるんだけど、おそらく彼は、そうした居直った普通人の群れが嫌いで、それを日本人的とか弱者という言葉で、敵としてツッパッてきたんだと思います。圧力を上げて、美学の方に突き抜ける方向で。猥雑さや俗っぽい要素も、それが狭くなって痩せないように、求めて取り込んでいた気がします」

「ただ、経済だとか、分子生物学だとか、キューバ音楽とか、外に強さの根拠を求めずにいられないのが、弱さであり危うさだったとも思うんです。今回も、キューバ音楽はジャズのように体系があるから好きだと言っているのが象徴的でしたね」

「文学というのは、答えの無い、キリがないことに向き合い続ける営為だと思うんだけど、彼はどうしても、世界を把握、説明する原理みたいなものを求めちゃうんですね。
誰だってそうだと言えばそうなんだけど、それですべて割り切ろうとし過ぎて、それが根こそぎひっくり返されてしまうような例外を認められない。偶然や散文性に耐えられない。全体主義への願望が強い人。
それをどこか自覚しているから、安全装置のように、体系からはみ出してしまう弱さを持ったハシやゼロを一方に対置して、肯定しようとともするんだけど。
それでもやっぱり(自分を託した彼らの弱さを、完成した体系を食い破る進化の種子のように例外的に肯定しようとしながらも)、人の弱さを憎む欲求を抑えきれずに、他者に転嫁する形になり過ぎちゃってると僕は思う。
自己嫌悪や克己心は、倫理や成長への動機になるけれど、人間なかなかそれ一辺倒ではしんどくなっちゃうから、勢い弱者をスケープゴートのように必要としてしまったりもする。そこは、どうも嫌だなと思って、だんだん彼から距離が出来ていきました。
とはいえ、人間自分に負荷を課して強者として振る舞う方が、弱者ヅラするより倫理的で上等だと思っていますが」