『嫌われ松子の一生』


同居人が借りてきた『嫌われ松子の一生』のdvdを観る。
とにかく中島哲也監督の前作『下妻物語』が嫌いなので、「悲劇的な人間の一生をミュージカル仕立てで映画化」という前情報だけでもう反発を感じて、今日まで観る気がしなかった。
『下妻』は、いまどきストレートに描くと恥ずかしい友情や義侠心を、冗談めかして描くことで逆に今の観客にストレートに届かせた、といった世評が多かったが、正直「寝言は寝て言え。プライドばかり高い臆病者なおまえのセンスで他者一般を測るんじゃないよ」と思った。
加工しすぎて実在感ゼロの画面や、不必要に奇を衒ってうるさいギャグも好みじゃないし、そうしたすべてから感じる「なんちゃって感」がまず気に入らないが、一番嫌だったのは根本のストーリーやテーマ、主人公の感情の流れの肝心な部分にまったくリアリティが感じられなかったことだ。土屋アンナのヤンキーは悪くなかったけど、彼女を取り囲む田舎の風景の寒々しさや、その中で生きる人間の、ささくれだった孤独や面倒くささといった「ヤンキー」の根っこの部分に(共感にしろ反発にしろ)全然触れないので、本当の絵空事にしか見えない(真ん中に本当がなきゃ、それはデフォルメとは言わないんじゃないか?)。だからギャグめかして扱うほどに、部外者の空々しい偽善と、調子づいた無遠慮しか感じられなかった。同じく、深田恭子ゴスロリ娘も、語り手が肩入れしている分、見ているこっちは美化のしらじらしさにどんどん醒める一方。
だいたい任侠なんて、馬鹿を覚悟でそれを通す理由が伝わってこなければ、安全圏の観客を慰撫するいやらしいものにしかならない。


この『嫌われ松子〜』も、エフェクト過剰でめまぐるしく落ちつかない画面や、冗談まみれの演出は同じ。けれど、今回は全然嫌だと思わなかった。
いまどきのサブカルな人気者をこれだけ無駄に並べていて、それがまったく鼻に付かないというのも、自分には本当にめずらしいことだ。
それは、根っこのスト−リーや主人公の感情の流れが、しっかりとリアリティのあるものとして伝わってきたからだ。
こういう映画や人間像を、好きな人も嫌いな人もいるだろうけれど、自分や観客の都合と馴れ合って、帳尻合わせしているような逃げやズラしは全く感じなかった。同時に、ナルシスティックな自己憐憫を主人公に重ねるような弱さも全く無い(荒井晴彦の激しい反発は、この強靭なバランス感覚への嫉妬を多分に含んでいるのではないかと邪推)。


病弱な妹を哀れむ親に放っておかれた姉は、愛情に飢え嫉妬に苦しみ、必死で他人に好かれようとする。
気の弱さからどんどん他人に押し込まれ、逆ギレして孤立。自分の居場所と家族を失う。
自分が寂しいから、しんどい男ばかりに入れ込んで、欠落を持て余して収拾付かない者同士、ズルズルとドツボにはまるような関係を繰り返す。
心配してくれる友人も振り切り、しんどい「二人」を全うした揚げ句、最後は一人取り残される。
もう、誰にも自分の人生に立ち入らせないと厭世的になり、息をするのも面倒臭えと、廃人のように暮らす。それでもずるずると生き延びて、テレビのアイドルに入れ込んだり、ただ生きているだけの人生の無意味、無価値にのたうちまわったりもする。


とにかく見てるだけでしんどく鬱陶しい弱者の、失敗した人生。だけど、そのメンタリティ自体は、(「自立した個人」を称揚するイデオロギーの持ち主ならば毛嫌いするだろうが)それこそ演歌や仁侠映画に感情移入できるような人なら、普通に理解できると思う(理解できるからこその反発というのも、またあるだろうが...)。
真夜中のカーボーイ』や『野獣刑事』、色川武大の『狂人日記』といった、どうにもならないダメなヤツを拾った映画や小説を愛好する自分としては、松子だけを切り捨てる理由はどこにもない。


ラスト近く、「どうしようもなく不器用でダサい、こういう神様なら、僕は信じてもいいと思う」というセリフがあった。
俺自身は、こういう人間と現実には到底付き合いきれないし、実際今までも本当に身近な人間も含め、意識無意識に切り捨てながら生きてきたけれど、今(というより、本当はいつだって)本当に表現されるべきものがまだあるとすれば、俗世の利害から零れている、こういうことに尽きるんじゃないか、と思う。
それを描ききろうという強い意志が感じられたから、この映画の時代考証のデタラメさや、個々のキャラクターやエピソードのキレイすぎる纏め方を、まったく気にならなかった。
むしろ、現在の観客に、時代性を超えて普遍的な感情を、ストレートに届けるための正当な「デフォルメ」表現として肯定、支持したい。


嫌われ松子の一生 通常版 [DVD]

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