悲しい断絶


友達の少ない同居人に、久々に上京している地元の旧友から連絡があり、昨日は嬉しそうに出かけて行った。
彼は中学、高校の頃、同居人にブルーハーツ尾崎豊バンプオブチキンなどを紹介してくれた純朴な人物らしい。彼女は当時、どんくさかったりナイーブさが過ぎたりで、みんなが普通にやってることを出来ず、不登校やったり高校クビになったりを繰り返しながら孤独に自分を恥じていたので、それが大層救いになったらしい。
また同時に、そうしたナイーブなミュージシャンたちを愛好しながらも、正義感があって頑張り屋な彼のことを、眩しく見ていたところもあったようだ。

ところが、久々に彼と再会した同居人は、浮かない顔で帰ってきた。
彼が住んでいたのは郊外の駅から徒歩20分くらいの場所にある、ワンルームのコーポ。
本棚にはビジネス書や自己啓発本、たけしの映画や「ジョゼと虎と魚たち」のビデオ。そんな質素なわび住まいに、一式10万円はするだろうアムウェイの調理器具が揃っていたらしい。
見た途端に、悲惨な気持ちになったと言う。


彼は東京の大学に進学し、一人暮らしをしながら体育教師だかトレーナーを志望していたが、知人の紹介でNPO法人に就職。
子供に運動を教える仕事で、まじめで人好きの彼はやりがいのある仕事だと思っていたが、とにかく給料が安い。
忙しい上に小さな職場なので、学生時代よりも人間関係が狭まり、だんだん自分の人生にジリ貧の閉塞感を感じるようになってきたらしい。


「過去の栄光に縋って生きるような人間にはなりたくない」
「未来への夢や生きがいも持てないような、後ろ向きな生き方はしたくない」
彼は相変わらず、前向きな精神論を語る。
繊細な怠け者で、ともすれば怠惰な自己撞着をしがちな同居人は、ポジティブで努力家な彼を眩しく見上げていただけに、それが今度は彼を閉じ込める意識の檻になってしまっていることに激しいショックを受けたと言う。


彼にアムウェイを勧めたのは職場の上司。
彼に紹介されたアムウェイの幹部は裕福で社交的な人らしく、誕生パーティーに60人もの知人を集める。
不遇を託っている彼は「ブルーハーツとの出会い以来の衝撃」を受け、この幹部を「凄い人」だと尊敬している。
「誰にでもチャンスはある。諦めちゃいけない。下流の人こそアムウェイを知らなきゃいけない」
「あなたの諦めや、ネガティブな頑なさが、チャンスを見逃し、人生を狭くしている」
こんなふうに啓蒙されて感動した彼は、一生懸命にビジネスチャンスを掴もうと努力し、「他人に売るものは自分が使ってまず納得しなきゃいけない」という幹部の言葉を真に受けて、誠実にこれを実行している。そして、調理油不要の鍋や、体や自然に優しい洗剤や石鹸の価値を生き生きと力説する。


これらの商品は実際に品質が高く、そういう意味では彼の言うことは何も間違っていない。
けれど、家賃5万弱のコーポに10万もする調理器具や高価なサプリメントが揃っているという図は明らかにおかしい。
でも、そのおかしさを、彼は絶対に認めないだろう。
機会は平等で、チャンスは誰にでもある。誰だって望んで努力すれば正しくて豊かな暮らしを手にすることができる。
そうした前向きな姿勢や世界観を疑い、否定する考えだからだ。
そして、そうした人間の希望を利用して、みんなが一緒に幸福になれる(チャンスがある)という嘘で無責任に他人を煽り、破綻した部分は末端の人間の努力の足りなさに押し付けてしまう構造こそが、こうしたネットワークビジネスの最大の悪だと思う。
いや、社交好きの金持ち同志でネットワークを作れる自分と、知人も行動範囲も限られた相手の初期条件の違いを直視せず、ポジティブシンキングに酔うことによって、彼らは犠牲に対する痛みや罪悪感さえ感じることがない。


加害者達だけじゃない。
自分が普段つきあっている活字周りの同業者や、下北、中央線周辺のサブカル者たちは、彼のトンマさとナイーブなダサさ加減を、ほとんど反射的に嘲笑すると思う。
でも、考えてみて欲しい。
俺は、彼に対してアムウェイを否定した時に、アムウェイに代わる希望を提示することが出来ない。
いや、それ以前に、彼を説得できるだけの言葉を持っていない。
俺が大切にしているもの、俺を支えているものや言葉は、おそらく彼の支えにはならない。
俺も同居人も、彼と違って自堕落で小ざかしく、その分、自分を抑えてまで他人に合わせるような我慢強さや根性が無かっただけなのだ。だから早いうちから、みんなに「OK」とされない自分を肯定する理屈や、受け入れやすい世界を探し、「みんな」を外から距離を持って観察、批評する視点を手に入れることに意識的だったにすぎない。
結果としてそれは、自分の居る状況に適応することにまじめで一生懸命だった彼よりも、ある意味で幸運なことだったと思うけど、それが全部自分の手柄だなんて到底思えない。
複数の世間と価値観を持つこと、そして「人は平等じゃない」ということを理解することは、彼のような人にも是非とも必要なことだと思うのだが、適応することに変わらず必死な彼に対して、現在いる場所以上に魅力と説得力があるものを提示するのは、並大抵のことじゃないと思う。
「本当に成り上がりたいなら、自分で起業するくらいの覚悟は持って勉強しろよ。みんなと空騒ぎしながら成功なんてできるわけないだろ。その甲斐性がないなら、分相応に働け」くらいは言っちゃいそうだけど、やっぱり自分でも魅力の薄い言葉だと思う。彼が得たいのは、本当は金だけじゃないだろうから。


インテリやサブカルたちは、「自立してない」「依存心が強い」と彼のことを笑うだろうけれど、自分が「普通じゃない」という意識を早いうちから持っていたり、学問や思想や芸術的なことを自分のアイデンティティにできるような方向や才能を持った特殊な人以外に、そうした自立を要求することは理不尽だと思う。
当たり前に働き、当たり前に結婚して家族を作り、支えあう事がささやかな生きがいになっていたような人が、いつのまにかそんな「当たり前」から零れそうになっている様を「自己責任」だと切り捨て、「個性的な自己実現」に煽っておきながら、それが陳腐に空洞化すると嘲笑するようなチンケな個人主義こそ最低だと思う。
そして、そうした人たちこそ、自分が属する文化圏や趣味の世間に対して思い切りベタベタに依存し、狭い序列作りにばかり汲々としていることを、うんざりするほど俺は知っている。
(昨日帰宅した同居人は開口一番、「親元の近くじゃなく東京で、今まで生きてきたのとまったく違う環境で、放っておかれながら一人で暮らすことは、本当は大変なことなんだなと思った」と言った。
今の日本がかつてに比べて、極端に貧しいということは実は無い。
ただ、大きく違うのは、物と情報だけは、個人の前にあふれかえっている。
自分だけが、そこから零れてしまっているという意識とコンプレックスを持ちながら生きることは辛い。
特に、東京で、金も目的も持たずに暮らすことは淋しい。
それは、外に出かけて誰かと繋がるための材料も手段も持てないということだから。


浅羽通明の新刊『右翼と左翼』の書評を見て回ってたら、理念なんか必要としない人のことが視野に入っていないという、かつての宮台みたいな阿呆なツッコミをしてる間抜けが多くてうんざりしたが、意識的に理念や思想なんか求めないにしても、どこかに「当たり前」な前提を必要とする程度には、人は弱いものなんだよ。自分は強いと言い張るにしたって、それだけじゃ、意味を求めるような弱者は自己責任でしょうがないって切り捨ててるに過ぎない。高級ぶってるこうした文化人が、実はアムウェイとまったくの同類なんだよ!)


本当に、暢気に嗤ってる場合じゃないんだよ。
彼らがアムウェイに行っちゃうのは、隣人である俺達とその社会が、偽善的で、酷薄で、不甲斐ないからなんだから。
俺達はネットワークビジネスに負けっぱなしなんだよ。

右翼と左翼 (幻冬舎新書)

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