鉄の悪魔を叩いて砕く!


カートゥーンネットワークでやってる『新造人間キャシャーン』の再放送(って言い方、ケーブルだとおかしいか...)に思い切りはまっている。
キャシャーンは小学生になるかならないかくらいの時に本放映で見ていて、当時から物凄く好きだった。ただ、さすがにこれだけ古い作品っていうのは同時代的にどれだけ意味とインパクトがあったとしても、現在から見るとある程度割り引いて観ないとキビシイってことが(ごく一部の例外を除き)常だったりするので、キャシャーンも録るだけ録ってしばらく放置って状態になりそうな気がしていたんだが、観はじめたら止まらなくなってしまった。


まず、とにかくキャシャーンの設定の孤独さ加減が凄い。
父親が作ったアンドロイドの暴走を食い止めるため、唯一の対抗手段として自らを犠牲にし新造人間になるキャシャーンだが、人々はロボットを憎んでいるため正体がバレると露骨に疑われ、心無い言葉を浴びせかけられる。そんな彼の母親はアンドロ軍団の内情を探るため白鳥ロボットスワニーに移植され、ブライキングボスに愛玩されている。
ロボットに追い詰められた人間たちのエゴがむき出しになる場面もしばしばで、仲間を断罪し、あるいはアンドロ軍団に寝返って保身を図り、キャシャーンと友情を結んだ善意のロボットに当然のように犠牲を強いるような冷たい差別を感じさせる場面も多い。彼でなくとも「こんな奴等に身を捨てて守るだけの価値があるのか!?」と何度となく自問させられるはず。しかしキャシャーンは、孤独であればある程尚、人々を守り、絶望的な戦いを戦い抜く(そして、アンドロ軍団を倒したとしても、彼は二度と人間に戻ることはできないのだ)。


この頃のタツノコ作品特有の傾向なのだが、主人公は日本人名なのに、舞台背景は西洋風の石造りの街並みで、劇中頻繁に教会の鐘の音が重々しく響く。キャシャーンが神に祈るような場面は描かれないけれど、孤独なキャシャーンが何を拠り所に、何を守りたくて戦っているのかは、大人になってみるととても気になる。だから、オープニングタイトルにかぶって、キャシャーンと愛犬フレンダーの影が伸びる絵には毎回のようにシビレるし、かつて家族と暮らした古城に向かい月光を浴びて佇む二つの影、というイメージの秀逸さは鳥肌ものだ。
行く先々で、あの風体の彼らが、「キャシャーンという者です」と人々に名乗る時の違和感は、子供心に強く残った。


この頃のヒーローものでは彩的な添え物であることが常だったヒロインだが、ルナとの絆は、キャシャーンの孤独に比例するように強い。
例えば「ロボットハイジャック」というエピソード。
避難民をアンドロ軍団から守り、避難機へと誘導したキャシャーンたちは、人々に「命の恩人」だと感謝される。戦いでエネルギーを消耗しきったキャシャーンは、怪我人の介護のためにルナを機内に残し、休息のために身を隠す。
ところが、避難機は途中アンドロ軍団に襲われて不時着。ルナは恐慌状態の避難民を守って一人戦うが、アンドロ軍団から「キャシャーンの居所を教えなければ避難民を爆弾で皆殺しにする」と脅迫される。避難民も「我々何10人とキャシャーン1人の命のどっちが大事だと思ってるんだ!」「キャシャーンも我々が救えれば本望のはずだ!」とルナに詰め寄る。ルナは迷った揚げ句、遂にキャシャーンの居所を教える。
さらに、エネルギーのないキャシャーンの身を案じる独り言を盗聴されたルナは、その内容からキャシャーンが人間でないことを悟った軍団から、人間には無害でロボットだけを破壊する父の形見のMF銃でキャシャーンを撃つよう命令される。結局、済んでのところでキャシャーンの機転により事なきを得るが、ルナは「私の心にはあなたしかいないのに、私はあなたを裏切ってしまった」と自分を責め、キャシャーンの元を去ろうとする。しかし彼は「俺は人類の為に命を捨てた男だから、彼らの犠牲になるのは当然だ。君の判断は間違っていない、当然のことをしただけだ」と、ルナを受け入れる。
そして「ルナがキャシャーンの支えであるように、キャシャーンはルナの支えなのだ」というナレーション。今では公式見解にしか聞こえないような言葉も、このドラマの中では言葉通りの重い意味を帯びてまっすぐに響いてくる。


父親は捕らえられ、母親は白鳥になって敵の手の中。仲間は恋人と愛犬だけ。
しかし、現在から見れば、孤独であればあるほど、家族や仲間との絆は自明のごとく固いこういう話は「ロマンティック」な「お話」とも写ることもあるだろう。だから俺自身も、思春期くらいの頃は、もっと生身の人間の弱さや揺れを掘り下げるような方向を求め、志向もした。
リメイクされたあの劇場版『キャシャーン』では、父親は下層階級出身ゆえに仕事の為に家族を顧みない男として描かれ、業深い彼らの戦いは厭世的な距離を持って眺められる。
けれど正直、現在のように誰もが「自分」の痛みや主張だけを訴え、一方でそういう自他の「エゴ」を直視し引き受けるだけの強さも持てずに「平和」や「優しさ」といった願望に溶け込んで癒されたがるような、我々自身の「弱さ」にうんざりするからこそ、確かなものが何も無くとも戦い抜くオルジナルのキャシャーンの敢闘精神はますます眩しく見える。
そして、「正義」がその場の空気と多数決の別名でしかないこの国で、彼がかつて何に支えられ、何を守ろうとしていたのかがとても気になるのだ。