男一代菩薩道!

bakuhatugoro2009-06-09


学校の世界史では「滅びた」と教わったインドの仏教が、今、「不可触賎民」と呼ばれ虐げられてきた人々を中心に、一億人を超える信徒を獲得して勃興しつつあることを、どのくらいの方がご存知だろうか?
そしてその動きの中心にいるのが、佐々井秀嶺という日本人であることを。
恥ずかしながら、僕はまったく知りませんでした。つい最近、山際素男氏による佐々井さんの半生記『破天』と、同じく山際さんの翻訳による『アンベードカルの生涯』を読むまでは(ちなみにアンベードカルは、インドの独立時の法務大臣で、不可触賎民たちを心身ともにカースト制の呪縛から解き放つために仏教への改宗を指導した、現代インド仏教の始祖であり支柱でもある人)。
ついでに言えば『破天』を読んだのも、山際さんが同人誌『薔薇』時代からの色川武大の友人で、いくつかの小説に「50近くになってもひたすら学生だけを続けて、まったく人生をまとめようとする気配のないおかしな男」として登場することから興味を持って、たまたま最近復刊された代表作を手に取ったというのが動機。インドの歴史にも現在の状況にも、また仏教の歴史にも教義にも、まったく知識を持たない自分だけれど、『破天』で描かれた佐々井氏の個性、来歴とその行動力は、現代日本人の僕らのスケールを遥かに超えて強烈だった。その佐々井氏が、何と日本を離れて44年ぶりに、最初で最後の帰国をされるという。ともかく、実物を一目見てみたいというミーハー心で、一昨日護国寺で行われた講演会に足を運んだ。


僕の知る限り、一般向けに大きな告知はされていなかったはずなのに、護国寺の本堂からは立ち見のお客さんが溢れ出すくらいの盛況ぶり(約600人くらい集まっていたとか)。それも、カルチャーセンターに集まりそうなおばちゃんから、ちょっとパンクな若い衆、それにかなり年配の人たちまで、雑多でつかみどころのない客層。
僕のマイミクさんでも、お互い関係のない筋の複数の人が、最近の日記で佐々井氏の来日や『破天』について書いていたし、僕自身自分の興味を知人に話したこともなかったので、みんな一体どこで彼を知り興味を持ったのかが不思議。けれどどこかで、自分を含めた日本の読書層への吸引力に、時代的な必然のようなものを感じる。


佐々井氏はとにかく声がでかい。マイクを通すと音が割れるくらい。
それも腹式呼吸の轟くような声で、一言一言溜めをきかせてアジテーションする。
40年ぶりに帰国された人だけあって、センスがそこで止まってるってこともあるのかもしれないが、とにかく大袈裟というか、はったりも芝居っ気もたっぷりで、講演会というよりは、昔の壮士の演説会のようなノリ。
顔立ちも表情も、強烈な意志の強さを感じさせる厳しさで、現代日本人のそれじゃない。
ところが、不思議な愛嬌があって、絶妙な間で顔を綻ばせ、バカ話や冗談で場を和ませる。かつての民衆にとって、演説というのは一種の芸能であり娯楽でもあったのだろうなと、リアルに想起させられる。
僕の見てきたものの中で似てるなと思うのは、田中角栄の遊説の映像。
ただ、それに加えて彼の語りは、具体的な状況に対する怒りと使命感を強烈にはらんでいる。


仏教の知識に全く欠ける僕の印象でも、佐々井さんの仏教解釈にはかなり強引な所が多いんだろうと思う。
特に印象的だったのは質疑応答。
「アンベードカル博士の著書の印象は小乗仏教的だと思ったが、佐々井氏の大乗的な解釈には矛盾があるのではないか」「インドでの修行様子が伝わって来ないが、瞑想などはしていないのか」といった問いに対して、「大乗も小乗もない。アンベードカルの場合はまさに自己犠牲精神でやっていた。つまり、超大乗だ」「瞑想をしている信徒は中流階級以上。インドの多くの人たちにそんな余裕はない。私たちは座ってする瞑想だけをお勤めだとは考えない。立ち上がって働いている時も、虐げられた人々と共に戦っている時もすべてが瞑想でありお勤めだ。煩悩にまみれたこの世がそのまま浄土でもある。生きることが座禅であり真言。」と、きっぱりと応える。
態度は決して居丈高でなく、人々の置かれた状況を物語仕立てでわかりやすく話し、最後は感情を揺さぶる高揚へと盛り上げる。専門的な話と、実感レベルの語りのギャップを、緩急自在なエモーションで強引に束ねていく。
「普通、仏教は心の問題を扱うから無力だが、私たちの仏教は闘争仏教。だから戦いも暴力も否定しない。仏教には「千人を殺せば菩薩」という教えもあるくらい」といった、ちょっとあのオウムを思い出すようなぎょっとする言葉さえ飛び出す(実際の彼の戦いは、断食やデモなど非暴力闘争。ただ、かつて民族の統一を優先してカーストを温存を選んだ、ガンジーへの批判を込めた言葉でもあるようだ)。ただ、彼には明確な敵がいて、変えるべき明確な状況があり、守るべき人々に対する使命感がある。そこを自分の居場所と定めて、貧しい人々と同じ場所で寝起きし、同じ釜の飯を食い、確実に結果を勝ち取ってきた経験の厚みと自負が、語りに重く込もっている。簡単に相容れることのできない、生死をかけて争う強力な他者と向き合ったことの無い、敵も目標も曖昧な平和の中で暮らしている僕らには、どう咀嚼していいか正直戸惑うところもある。
けれども、ともかく明日を勝ち取ろうとする彼の怒りの明朗さ、心身の逞しさは、どうしようもなく眩しいし、意志と生命力の輝きに鼓舞されずにはいられない。
ともかく、自分の想像を超える世界に生きる、ガンジーとかマザー・テレサとか、歴史上の人物にタイムスリップして直に触れたような凄いインパクトと、丸裸なむき出しの人間に触れたような愛情を同時に感じる、充実した時間だった。
最後は他の観衆たちと一緒に、「ジャイ・ビーム!(アンベードカル万歳!)」と、一緒に拳を振り上げてシュプレヒコールまでしてしまった(笑)
まったく、つくづく暢気な日本人だ。


11日と18日に、広島と京都でも講演があるみたいです。
http://cybertempledennoji.cocolog-nifty.com/teyanday/2009/06/post-3acf.html


●追記 mixiコメント欄でのやり取りから覚え書き


●佐々井さんの絶対的な確信というのは、絶対的な他者(もっといえば敵)と向かい合っているという緊張感を前提としたものだと思うんですよね。「数億の仏教徒が殺されていくのを座して見過ごすくらいなら、私は相手を殺すことを選ぶ」とまで、はっきり言われていました。
そこまでの理不尽や、絶対性に向き合う機会が、僕たちの中にはない。
実際、観衆によるブログやmixi日記のいくつかにも、佐々井さんの闘争的態度や政治性への違和や拒否反応が書かれています。
僕たちは、自分は価値を相対的に距離を持って眺めることができる進んだ人間だと思いがちだけれど、具体的な本当の他者とのやり取りの時にも、本当にそうでいられるのかどうか。そういう、上げ底のないむき出しの自分たちにどこかで向き合っていなければ、一方に自信も確信も生まれないと思うんですね(ただ、それを頭でっかちに性急にやると、オウムのようなことになる)。
「男一代菩薩道」ってタイトルは本当に絶妙だと思うんですが、自分のやるべき仕事をはっきりと定めた人の力を目の当たりにすると、いろいろなものを薄く広く知ることの限界をひしひしと感じます。


佐々井さんって怒りの人ではあるけど、恨み節の人ではまったくないんですよね。それが凄く印象的だった。本来の仏教は、立場を超えた個人的な悟りを志向するものなのかもしれないけど、佐々井さんはそれをわかりながら、まずは場を整える政治に躊躇なく進む(けれど、『破天』でも紹介されていたように、実際の彼は権力闘争を避けるために絶対に選挙等には参加しないし、闘争でも非暴力を貫いている)。なんというか、地に足付きまくった現場の人なんですよね。実際は、観念的にのみ教義と向き合っている人よりも、余程柔軟なのかもしれない(『破天』や『男一代〜』を読む限り)。
だから、状況が変われば、こういう階級闘争的な姿勢をドグマ化していては限界も来るし、もしそうなれば本来の悟りの信仰としての仏教の方に自然に帰れる人だとも思うんですよね。人間のスケールが大きすぎて、デリケートな日本人社会には会わなかったんだろうなとは思うけれど。


話の規模はずっと小さくなるけれど、昔今東光が河内のボロ寺の和尚になって、地元の人たちと一緒にロクに仏の話もせずに、毎日遅くまで馬鹿話したり、揉め事の相談につきあったりしながら、「連中に教義の話なんかしても仕方がない。でも連中は、ちゃんと仏に近いところにいる」と言ってたことにちょっと近い気がします。今東光自身は、一方で仏教を絶対的なものとして帰依していて、すべてを突き放してみる冷徹さを持っているんだけど、それをそのまま人間がなぞれるとは思っていない。そして人々は、今東光の在り方の向こうに、仏を意識していたとも思うんですよね。
結局、仏への帰依と人への愛の二重性を生きる説得力を、一人一人の坊さんが持つしかないんじゃないかという、身もふたもない結論になちゃうんですが、このまま世の中が個人的、観念的な方向に進むとそうはなり難いだろうなと思ってしまいます。本当は「だからこそ」それを超えるものが必要なんですが。




●あれから『男一代菩薩道』読んで、いただいたノンフィックスのDVDを観て、当日の印象を反芻しています。
著者の小林さんが本の最後で漏らしていた、信者に誘われてこっそり(戒律で禁じられている)飲酒をしたエピソードや、「日本で仏教や宗教が論じられるとき、神秘的な言葉や人を超越したような思想が語られるが、ここでの仏教はもっとわかりやすかった。混沌とした世界の中で、助け合いと団結を生み出し、一つの生活の拠りどころとして機能する宗教だ」「仏教徒のやるべきことは、お坊さんを尊敬する、五戒を守る(守ろうという心を持つ)、インド人に染み付いたカーストの思想と闘う、これくらい。単純なルールだ。とはいえ、そのルールは、インドの仏教徒といえども決して毎日、聖人のようにかたくなに守っているというわけではなかった」「酒場は不健全そのものだが、その裏には酒を飲むということに後ろめたさを感じる、仏教徒らしい心を見ることができた。この暗さは悪くいない」といった言葉が印象的でした。
現在の日本の場合、はっきりとした倫理規範を持たずに情実でやってきた分コミュニケーションがデリケートな上に、現代的な権利や法制度が重なって、かなり窮屈に混乱していると思うんですが、こうした心身に行き渡るシンプルな人倫を下から育めたらなあと思えてなりません。社会が複雑で、変化のスピードが早いために、なかなか難しいとは思いますが。




●一方で、ちょっと不遜で、かつ情けない言い方かもしれないけれど、必要だと思えることに命を懸けて没頭する、そんな現場にたどり着き、しかもそれをやってのける度量と根性を持つ佐々井さんを、凄く幸せな人だなって思うんですよね。
そして、こういうはっきりと偉い人を直に前にすると、俺自身は、特別強い主張をする必要もなく、正当性を持っているわけでもない、非教訓的で取るに足りないものに拘ってやっていくのがむしろ自分の仕事であり、身の丈なんだよなって、逆説的に思ったりもするんですよね(笑)


破天 (光文社新書)

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男一代菩薩道―インド仏教の頂点に立つ日本人、佐々井秀嶺

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アンベードカルの生涯 (光文社新書)

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