優等生の点数稼ぎには付き合ってられない

渡辺あやの脚本は一貫して大嫌いだ。現在に卒無く細かく目配りして、ちょっと穿った視点を提出して、高得点を得ること自体が目的になってるような、優等生のせせこましさ、つまらなさにイライラする。苛立ちも望みも衝動も無いヤツが出しゃばるなよ、お前は役人でもやってろという気持ちになる。

 

追記。
この人はおそらく育ちのよい、歪な過剰や欠落を内在させていない人なのだろうと思う。
敢えて言えば、それを持たないことが、作家としてのコンプレックスであるような人なのだろう。
それは構わないのだが、よくないのは、そうした人が気安く踏み込んではならない領域を、わざわざモチーフに選びがちなことだ。
いや、描いていけないことは無いのだが、それを理解しようとしてしまうこと、理解可能だと思っていることが(受け手に伝わり、しばしば共有されてしまうことが)問題なのだ。
つまり、細心に行き届いているように見えて、根本の部分で、他者との埋めようが無い距離へのデリカシーが決定的に欠けているのだと思う。その図々しさが、同種の受け手と共犯関係を結んでしまう。
つまり、自分(たち)はわかっているという、賢しらな過信が、こちらを激しく刺激し、不快にするのだと思う。

僕から見れば、彼女の作品はすべてがうわっつらで、動機が嘘な偽物だ。理解を装いながら、理解の対象のためではなく、自分たちのための作品。社会派を装っても社会をよくする為でなく、よい人間であるつもりになりたい(わかっている人間であることを主張したい)自分のための作品なのだ。
あなた(たち)の本当にやるべきことは、こんな他人を出汁にした点数稼ぎなどでは無く、平板でからっぽな自分の問題に向き合い描くことなんだよ。それこそが、真に現在の問題を描くことにもなるはずだ。