武田泰淳の回想する関東大震災の一面

関東大震災の日、大揺れや、揺れ返しや、小刻みの振動が続いたあと、寺の周辺の家々からは、思いがけないほど、沢山の大人や子供があらわれてきた。いつもは姿を見せぬ老人や病人が、はじめて陽の光を受けたようによろめき出てきたり、戸板にかつがれて、眼をつむったまま出てきた。同一の災害のもとに、皆が親しげにしていた。八百屋さんは急に気前がよくなり、店の品物を分かち与えた。誰でもが自分より少しでも気の毒な人を手助けしようとした。口を利いたこともない大人たちは、まるで百年の知己のように語り合った。感じのわるい奴、なじめない奴、よそよそしい奴だったはずの「近所の住民」が、キリスト教的な愛に結ばれた、よき隣人として心が通じ合える。映画「日本沈没」で、ただ一つ不満なのは、突如として発生する災害にさいしては、人間同士が突如として親愛の念を抱き、それを身を持って示すこともあり得ることが描かれていないことである。

武田泰淳『目まいのする散歩』所収「あぶない散歩」より


昨日今日、これに類する光景に、直接、間接にあちこちで触れた。
正誤の情報が錯綜したり、状況把握や対処の上での混乱や衝突を見かけたりもするけれど、根っこのところでは誰もが隣人に良かれと思って動き、多くの人々が粛々と冷静を保って日常を維持している。
被害の少ない地域の人間の呑気な感慨でしかないかもしれないけれど、皆なかなか大したものじゃないかと、ちょっと嬉しくなる。
一瞬の、ごく限られた善意でしかないかもしれないけれど、そうできるうちはこの気分で行きたいね。


目まいのする散歩 (中公文庫)

目まいのする散歩 (中公文庫)