震災後感じたネットの問題点 「慌てて買い溜めちゃった」と呟けない空気こそ、最もまずい「同調圧力」なのでは?


地震津波、そして原発事故から3週間あまりが過ぎた。
地震直後の周囲の様子や報道、自分の行動や心の動きなどを記録しておきたいと思うのだけれど、命にかかわる緊急事態なのかそうでもないのか、もっと心配すべきなのか逆に心配し過ぎなのか、状況が二転三転し、情報や提言も錯綜している状態が続き、なかなか纏まらない。
また、多くの人が哀しみや不安の中に居る時、自分のそうした不安定な気持ちを、みだりに表に出すことは控えたいとも思い、まとまった日記はUPしなかった。ツイッターでも、そうした呟きは極力抑えて、普段より3割増しくらい柔らかめの言動を心がけようと思った。
ただ、もう少し状況が落ち着いたら、この間の自分の揺れや心の動きを、極力正直に記録しておきたいと思った。経験値を超えた事態の中で、何かを素早く判断すること(あるいは、慎重に判断を保留すること)が自分にとって、或いは誰にとっても本当に難しいことを、今も痛感している最中だ。


こんな不安定な状況の中にあっても、日々出会い、或いは目にする人たちの振舞いは、自分には概ね立派なものと感じられた。
喧しく言われた買い占め騒動にしても、少なくとも自分は、そこまで極端な買い占めをほとんど目にしていない。
確かに地震の翌日は、水や保存食などを買うために、自分も朝からスーパーに駆け付けた。輪番停電が発表された直後も、スーパーやドラッグストアのレジには長い行列ができていた。
ただ、並んでいる人たちの様子に、それほど殺気立った印象や、他を露骨に押しのけるような利己的な印象を自分は持たなかった。


テレビでは、数日にわたって繰り返し被災地の惨状が映し出されている。原発事故と放射能の状況は、専門家や知識人の間でも見解が大きく分かれ、何を信じていいのか解らない。
未曾有の事態の中での混乱に寛容になろうと努めながらも、新聞やテレビ(特にNHK以外の民放)などマスコミの言動には、怒りと落胆を感じざるを得ないものがあまりにも多かった(特にほとんどショック映像のように津波の来襲場面と、被災者の苦難をワイドショー的な扇情手法で繰り返すばかりで、今、どこに何が必要なのかを整理し、伝える努力を放棄しているようにしか見えない。あまつさえ、司会者やコメンテーター自身が慌ててデマをばらまき、フォローも無いという様子が散見された。このことは、当事者、受け手共にしっかりと記憶し、問題点を直視すべきだと思う)。
そんな中、首相が悲壮な表情で未曾有の国難を訴え、余震が続く中輪番停電が発表された時には、自分たちが経験したことの無いような大変なことが起こっているのだという強い実感を持った。


そんな状況で、買い物の傾向が多少傾いたり、いつもより何割か多くのものを買い込んでしまうことは、少なくとも自分は無理からぬことだと感じるし、事実、多くの人はそのことを互いに了解していたとも思う。
そしてレジ前の列では、見ず知らずの人同士が普段ないくらい親しく、不安を語り合い、互いを心配しあっていた。
東京の買い占めの為に被災地に物資が届かないといった報道もあったが、何故卸しの段階でコントロールしようとしないのかが、自分には解せなかった。少し強い言い方をすれば、政府や流通への批判を逸らそうとする、消費者への自己責任の押しつけじゃないかと思った。
そんな先回りをしなくても、多くの人は、こんな時だからこそ普通に、当たり前に振舞い、(半ば無意識に)そのことによって他者も、自分自身も支えようとしているように僕には見えた。
テレビで浴びるように繰り返し被災地の惨状を見続けていた人たちは、停電も物不足も、「被災地の辛さを思えば何でもない」と、誰もが自然に感じていると思えた。率先して節電し、義援金や物資を送ろうとした。
病気の方やお年寄りなど、苦しい思いをされた方も多いから、ある意味不謹慎な言い方に成ってしまうかもしれないが、東京も多少なりとも揺れに慌て、輪番停電の不自由や危機感を感じたことは、被災地を「遠くの不幸」として片づけない想像力を持つ上では、むしろ幸運だったと自分は思う。


半面、インターネット、特にツイッターを見るのは、正直強い苦痛を伴った。
地震当日、多くの人たちが帰宅難民になっている様子が呟かれ、施設や店舗を解放し、受入準備をしているとのツイートが散見された。そのうち夜になると、被災地と連絡が付かない家族が情報を求める声や、孤立した避難民の状況を知らせ情報拡散を求めるツイートなども目立ってきた。たった2、300のフォローしかない自分が未確認情報を拡散したところで何になるのかという疑問や迷いを抱えたまま、それでもリツイートせずにはいられなかった。
すると今度は、情報を見かけたら拡散するのではなく、警察に連絡して欲しいとのツイート。けれど、そうした未確認情報を、危急の事態の中で手一杯であるはずの警察に連絡して良いものか判断がつかない…。
デマに惑わされるなと簡単に言うけれど、肝心なことこそ確認しようがないことがほとんどであると痛感した。
特に、日々職場で決まった顔ぶれと顔を合わすということのない自由業で、かつ友人の多くが暮らす高円寺や下北といった単身者の町を離れ、郊外で独りテレビとネットに向き合うしかなかった自分には、この状況は正直かなりこたえた。
ネット環境を持たない単身者のお年寄りは、輪番停電や買い占めの情報が錯綜した時など、町内会といった直接の繋がりや連絡手段が衰えている今、更に辛い思いをされただろうと思う。


原発放射能に対する判断は更に分からない。分からない以上、政府や専門家を信じて、淡々と暮らすしかないと思うが、専門家や有識者の見解がバラバラなので、何を信じていいのかわからない。野菜や水についてもそうだ。「大本営発表を安易に信じて危機感が足りない」という声と「風評を信じて安易に惑わされる利己的な臆病者め」という相反する煽りが乱れ飛ぶが、結局本当のところは判断のしようがない。
「(当面)危険は無い」「しかし気をつけて」という、明言に付随する責任を避ける指示(「自粛」の「要請」って、本当におかしな言葉だ)に対しては、やや警戒心を強くしながら(つまり、被災地近くの野菜をなるべく避けながら)、日常を維持するという選択以外は、結局なかなか取れない(金や人のしがらみに縛られず、自由自在にどこにでも逃げ出せる、特殊な自由人でも無い限りは)。
勿論、確率の低いリスクに過剰に怯えず、買い占めもせず、そうした野菜等を積極的に引き受ける態度の方が、よりまともで尊いことは間違いないだろう。だが、危険や不便を引き受け(或いは家族を巻き込んで)まともさを貫くには、並みで無い意志と覚悟が必要で、安易に、そして脅迫的に他者に迫れることではないとも思う。
或いはどちらの方向にしろ、どんなに賢く妥当なことが言われていたとしても、「ここぞとばかり」「それみたことか」といった傲慢なエゴが透けて見えると、むしろ「あんたに振り回されるくらいなら愚かなままでいい」という気持ちになってしまう。


こうした不安が続く中、少し状況が落ち着いてくると、政府や東電は勿論、それ以上に愚かな誰かの言動や世間(あるいは日本人)一般を貶めることで、自身の相対的な正しさを主張するような振舞いが目立つようになった。
普段からネット、特にツイッターはその性質上、モノローグともダイアローグともつかない、宛先曖昧な当て擦りがどうしても多くなりがちだけれど、こういう時に目にするとどうしても心が冷える。
中でも目立ったのはやはり、「買い占め」に対する批判と、先制防御的な「自粛」批判(あるいは嫌悪)だったと思う。
買い占めについては上にも書いたように、日常が大きく揺らいでいる不安と、現に流通が滞りがちな状況の中では無理からぬ範囲のものだったと思うし、極端なものもほとんど見なかった。ただ、平日昼間に買い物をする自由業の自分には見えていたそうした現場が、例えば、夜半にしか買い物に行けない、仕事を持った単身者(つまり、ネットのヘビーユーザー達)から見えにくかったことは確かだと思う。仕事帰りに立ち寄ったスーパーの棚が突然カラになっていれば、驚きも怒りもするだろうし、その状況を思いごと呟くうちに、不信と風評が増幅されてしまった。


「自粛」批判についても、自分の交際や観測の範囲が偏っているのかもしれないが、(緊急の節電等を除けば)自粛を呼びかける声よりも、先制防御のような自粛批判のツイートの方が何倍も、何十倍も多かった(石原都知事というわかりやすい負のアイコンのために、更に助長されているところもあるだろう)。
この背景には、震災の被害と原発の是非の論議の中で経済が縮小し、消費個人主義が揺るがされてしまうのではないかという怯えが、暗に大きく作用していると自分は見る(文系知識人や予備軍の、厭世的、終末的な気分への傾斜や、ヒステリックな体制批判にもその影が濃いと思う)。
勿論、恥を忍んで言えば、被災地の人々の哀しみや窮状以上に、今後の仕事や生活を心配し始めている。
経済的な影響が、これから徐々に被災地以外にも広がっていく中で、不便への嫌悪と貧しさへの恐怖から復興に向けた熱気も昂っていくだろう。一方、反原発含めて「今までのイケイケどんどんに戻そうとすることが果たして正しいことなのか? 欲と利便性の追求がループになってる状況を見直すべきではないのか?」という立場もある。双方の衝突は激しくなり、世相の混乱は避けられないだろう。
被災地の苦しみを忘れず、同時に自分の中に抱える矛盾や微妙さを押し流してしまわないよう、安全な場所(或いは中途半端な場所)にいる自分の心の動きや、目にした状況を整理して、一度気構えを作りなおす必要を感じた。


知識人などの発言では、「弱者による脅迫」を遠ざけようとするあまり、エキセントリックを嫌い、情念をタブー視しすぎる傾向に普段は反発を感じていた、糸井重里さんや内田樹さんといった人たちの、冷静さと柔らかさを第一に優先しようとする言動に共感することが多かった。
また、都市部のセンスエリートである自己の「感覚」に対する相対化が欠けているのではと、やはり半分の違和感を持ち続けていた中野翠さんの、サンデー毎日の連載での「コンセントリック(同心的)もエキセントリック(偏心的)も一長一短」だが、「今は日本人の同調力のいい部分を生かすべき時だと思っている」という言葉にも、強く共感した。
また、自分たちにとって当たり前の振舞いが、外国の人たちから驚きを持って賞賛されたことも、弱っている時だからこそ嬉しかった。
だからこそ、意思の持続が苦手で、雰囲気に同調しやすいという負の側面を忘れず、自分の都合を全体の都合であるかのように粉飾して、曖昧にごり押すようなことは、重々避けたいと思う。
自他の正直な立場や思いを押し流さないように気をつけて、互いに許し合い、助け合いたい。


知識人や、いわゆる情報強者と言われる人たちの多くは、「分かっている」ことを競い過ぎて(また、自分の誤謬の責任を回避しようとし過ぎて)、「分からないことを前にどう振舞うか」を置き去りにして来た傲慢の負の側面として、不信感をばらまき、混乱を助長させてしまっていた。
ネットの情報の速さと量も、被災地などでは大きな力を発揮したようだけれど、少なくとも東京に居た自分の主観を言えば、振りまわされることばかりが多く、テレビや新聞で最小限の情報を得た場合と、判断と行動は結局大差無かった気がする。きりのないことに対してどこまで粘るか、或いはケリをつけるべきか、判断すること自体の困難に加えて、マイナスの感情に触れ続ける負荷があまりにも大きかった。


もしかしたら、日常目にした静かに気遣い合う人々も、ネットの中で弱さを晒し、姑息な自己主張を繰り返す人々も、実は同一人物ということもあるかもしれない。
普段でもネットというのは、互いの内心が常時丸見えになってしまうから、時々直に会う分にはスルーできる違和が、殊更目立って関係を悪くしてしまう部分があるから、実状よりも強く負の部分を受け取り過ぎているのかもしれない。
或いは、どうしても目立ってしまうそうした振る舞いの影で、敢えて一歩引いて黙っている優しい人たちの方が、本当はずっと多いのかもしれない。
切実な状況と、その中での対立の中で、今後そうした優しいものが、なし崩しに押しつぶされてしまうことがないよう、祈るような気持ちでいる。