「行動」という現実逃避


id:kikori氏のこのエントリーhttp://d.hatena.ne.jp/kikori2660/20041020#p8から、本宮ひろ志バッシングの震源地を垣間見て、唖然とした。
http://www.ch-sakura.jp/bbs_thread.php?ID=74304&GENRE=sougou


もぐら叩きに血道をあげるような本末転倒は避けたいけれど、喉元すぎればって感じですぐに繰り返され、ついぞまともに考えられることの無いループの不毛にほとほとウンザリきてるので、ここはやっぱり言わせて貰う。

例の本宮ひろ志の漫画の件、集英社に「抗議電話」までしておいてこんな事言うのもなんだが、妙に後味が悪くて仕方ない。集英社は議員相手に徹底的に闘っても良かったはず。こんな逃げ方は、作家を守るどころか本宮自身の作家生命すら奪いかねやしまいか? 一方的に集英社が休載の道を選んだ事で、そのうち必ずや「言論弾圧だ!」という声も出てくるだろう。抗議も自由。休載も自由。圧力を加えたのでなければ「言論弾圧」もクソもないんだけど。
 また、同じように抗議をした議員グループに対しても、心から同感する事が出来ない自分がいる。特に、ある女性議員の発言には、私はどうしても「違和感」が拭えなかった。曰く、「もし本当にこんな残酷な事件(南京大虐殺)が起きていたら、私たちは自分達の先祖を敬えますか?」と。それは違うだろうと。当時は戦争中だ。何があるか分からない。中国や極東裁判のプロパガンダを全て取り除いたその時に、もし万が一日本兵の「蛮行」が目の前にありありと浮かんできた時には、この女性議員はどうするのだろうか。日本人としての誇りを失い、その「真実」を引き受ける覚悟などないと言うのか。それは本当の「愛国心」とは言えないのではないかと思うのである。
 このところ連日のように國民新聞の編集長が「チャンネル桜」に出ている。「私は集英社の編集長に雑誌を叩き付けて言ってやったんですよ。“もし本宮のマンガを見た支那人がここに描かれている事を真に受けて、お宅のお嬢さんをレイプしたらあんたどうしますか、それでも許せるんですか?”ってね」などと言ってるのを聞いて、正直なところ嫌悪感を憶えた。少なくとも、こういう連中とは一緒にされたくない。私が求めているのは「真実」であり、真面目に戦局に赴き散っていった戦士たちの「名誉」だ。それ以上でもそれ以下でもない。「見たくないもの」を見ないふりしたり、妙な言い掛かりをつけて恫喝する人間とは与したくない。


こうした至極まっとうな意見に対して、批判された国民新聞西村修平という人はじめ、それに追随するこの板の常連たちは、「行動しない口舌の徒は黙ってろ」と、袋叩きにしている。
「行動」というけれど、それは一体何を実現するための行動なのか? 先達の名誉や、現在の自分たちに連なる歴史が、不当に歪められ、隠蔽されていることを正すためなのか? しかし、それならば上のような、恥じも誇りも、力関係の中でのやむを得なさといった事情も含めて、公正であろうとする姿勢が何よりも重要だろう。が、発言を追う限りでは、自分が盲目的に元気になれる大義名分に傷がつかないことだけが大切で、状況、資質の異なる他人の事情を知ることなど邪魔なだけなようだ。


そして、彼らが繰り返すのが「現在は非常事態だ」「そんな揚げ足取りは、中国を利するだけだ」。
あーあ、何度も聞いてきたお題目。
最近じゃあ、マイケル・ムーア支持者なんかがよく言ってるよね。「とにかくブッシュを!」って。
かつての左なら「ファシズムの足音が」、右なら「北の脅威が」ってヤツ。
こういう脅迫めいた、キャッチセールスまがいの煽りにだけは、俺は絶対乗りたくない。
そんなもので、情勢が右から左、左から右へと塗り替えられたとしても、ちっとも嬉しかないよ。


俺たちの世の中は、本当に長いこと政治について意識することを「ダサいこと」「怖いこと」として遠ざけてきた。というより、自分たち自身手を汚すことによって、この豊かさを得ることを選択してきた、っていうことを、意識しないようにしてきた。
そこは保留にして、世界帝国であるアメリカの傘の下に入り、追従することによって、平和と豊かさを手に入れた。かつて、戦争の悲惨や、軍国主義の理不尽を痛感しているから、それだけはもう嫌だと思ってきたし、とにかく恥の意識とかとかめんどくさいこは後回しで、豊かになりたいと思ってやってきた。
これはほとんど、「そうするしかなかった」現実的な選択だったけれど、大衆にとって意識的なものではなかったから、筋が通らないと言われると、なんだか恥ずかしいような、申し訳ないような気持ちにも、ついなってしまう。だから、そういう自分たちを安心させるために、反戦平和とか、人類愛といった言葉が必要だった。


俺は、そのことを否定したいわけじゃない。いくら何でも、そんなに傲慢にはなれない。むしろ、自分たちのその選択を意識しなおし、現実的なものとして肯定しなおす姿勢が必要だと思う。


その上で、例えばマイケル・ムーアは、産業が空洞化し、世の中が極端な情報化社会になって、受け身な大衆が量産されていることに警鐘を鳴らしている(それに彼は、「行動しない口舌の徒は黙ってろ」、なんて理屈を振り回す、最悪に堕落した口舌の徒のようなマネはしない)。それは確かに、地に足の着いた生活者の視点の問題提起だと思う。
ただ、そうした自給自足的な産業構造や、利益や合理性よりも雇用の確保と仕事の質を優先するような社会を選ぶってことは、つまり、敢えて「貧乏を選ぶ」ってことだろう(特に日本においては)。そこまで引き受けなければ、やはり言いっぱなしの無責任ってことになると思う。
けれど、そんな変化を企業が許すだろうか? そしてそれが、かつての社会主義的な停滞と、国際的な競争からの脱落を免れることができるだろうか。
また、自由競争万能、階級格差に反対と言っても、たとえばそこでしばしば引き合いに出される北欧諸国のような姿勢をとるための基盤が、日本にあるのだろうか?


国の誇り、自主独立といったところで、世界帝国アメリカがそれをすんなり許すとは思いにくいし、経済的な立ち位置の不安定も覚悟しなきゃならないだろう。


じゃあ、どうすればいいのか? 何を選べばいいのか?
どの問いにしろ、選択にあたってのリスクは大きいし、簡単に判断できない難問ばかりだ。
しかし論壇や、このはてな界隈を見ていても、「そんなことはもう自分たちには了解済み」といった体で、論敵を落としたり威嚇したりといった言葉ばかりが行きかっているように見える。素人目には本当におどかされるばかりだし、なんだかそうした本質を前に迷ったり弱みを晒したりすることを避けて、安易な敵を設定して叩くことで誤魔化し、溜飲を下げているだけのようにも見える。


今、本当に必要なことは、そうした「行動」というお題目で「現実逃避」することじゃなく、こうした難しさを自分たち自身のものとして受け止め、考えていく強さなんじゃないだろうか。