space battleship ヤマト

bakuhatugoro2010-12-04



公開初日の水曜、アサイチで観てきた。
つい先日もNASAの地球外生命体(!?)に関する発表予告に興奮したけれど、あのヤマトが30年後(いや、四捨五入すればほとんど40年か…)実写で、それも時のトップスター達の出演によって映画化されていることが、当時夢中で観ていた僕らには(そして、大人になったらもうアニメなど観なくなる、観られなくなるんだろうと思っていた僕らには)、そのこと自体立派にSFだ。
そんな、リアルタイム世代で且つ、パート1原理主義者の自分が新作を腐すというのは、ON世代の爺さんが現在の野球にケチつけるように当たり前過ぎて恥ずかしいことだとも思うし、なるべく慎みたい。ともかく近年に無いくらい、この日を心待ちにして来たし、出来る限り虚心に、現在の技術で蘇ったヤマトとの再会を楽しむつもりで劇場に出かけた。
しかし、本当に残念なことに、去年の復活篇に続き、ともかく上納金を納めてきた心持ちというのが、正直な感想。


チープなセットや感情を露わにし過ぎる現代的な芝居など、他の気になる点すべてに目を瞑っても、これだけは言いたい。
沖田艦長は、「指揮官になったことの無い者に、この重圧はわからない」などとは、決して口にしないよ。
松本零士が戦闘機乗りだった父親の面影を託した、やむを得ないことも含めて、すべての責任を敢えて(生き延びた者として)黙って背負う態度を体現させたキャラクターこそが、あの沖田艦長なのだから。しかも、それを受けた古代が、部下に向かって味方を見捨てる命令を下したことを詫びるなど、唯の責任放棄(プレッシャーからの逃避)じゃないか。
これはオールドファンの穿ち見に留まらない、はっきりとした欠陥だと思う。事実、件のシーンのあと、更に森雪とのラブシーンに雪崩れ込んでしまう展開に、場内からも失笑が漏れていた。


だって、このままでは1年後、確実に全人類が滅亡してしまうんだよ?
大過ぎる(しかも限りなく不可能に近い)使命の重圧を、無言のうちに共有した人間たちの物語なのだ。
その中には、生きて地球に帰ったとしても、既に迎える家族もいない沖田や古代のような者もいて、それでも彼らは仲間と共に、同胞の未来の為に黙ってすべてを懸ける。


ヤマトの背後に大和を(そして物語自体の背後に戦争体験を)感じさせるような要素をバッサリ削った判断自体は、間違っていないと思う。観客や世の中の方にそうした記憶が風化している以上、どうしたって描写不足になってしまうから。
けれども、そうであればこそ、現在の窮状のリアリティと、それに対する物語のテーマの設定は重要だったはず(その意味で、ヤマト発進以前の、地下都市の荒廃と絶望の描写には、もっと時間をかけて欲しかった)。
それを、「個人的な感情で生きていた人間が、巨大なものに立ち向かう姿勢と覚悟を身につけるドラマ」と設定しようとしたとは、監督自身も言っている。しかし、セリフも芝居も演出も、すべてが決定的にリアリティを欠いていて軽い。
それはやはり、制作者自身に、それを具体として描写するための実感、体感が、まったく欠けていたということだと思う。
1年間の航海を描くには、劇場映画の尺は絶対的に短い。加えて、ヤマトのドラマはそのまま重厚な操艦のプロセスが支えているから、書割の説明台詞が多くなることも仕方がない。だからこそ、思いを飲みこんだ上の所作や発声自体の「重さ」が肝になる。
そしてその重さ、個人のスケールを超えた巨大な現実を前にした時人間をを支える重さとは、やはり自分の内心超えたところで人々と(もっと言えば、「故郷や同胞」と)何かを共有しているという実感だと思う。それが、僕ら(の社会)にはもう長い間、良くも悪くも決定的に失われている。
その事実が、端的に漏れ出てしまったのが、あの沖田と古代の言い訳がましさ(をそれと感じない作り手の美意識の欠如)であり、それはこの映画の数少ない好改変だった、あの古代守の最期のセリフの説得力を台無しにしてしまった。
これを取り戻す(あるいはもう一度積み重ねる)ということは、その是非の考察も含めて、単に映画制作という次元を超えた、到底一朝一夕には答えの出ない難題だけれど、少なくともその事実の自覚だけは、せめてこの失敗を通してなされるべきだと思う。


無いものねだりを承知でもう少しだけ。旧作のオリオン座α星でのエピソード(ガス生命体を赤色巨星に誘い込み、波動砲でプロミネンスを吹き飛ばして血路を開く)のような宇宙や天体の描写を、現在の技術で観てみたかった。ヤマト(特にパート1)は、未知の大宇宙の広がりを感じさせる冒険物語的テイストが大きな魅力だったから。せっかく宇宙を舞台にしているのに、広がりと実在感がほとんど感じられなかったのは残念だった。
これは、設定の掘り下げと説明描写不足も大きい。SFは大ウソだからこそ「らしく見せる」仕掛けが重要。事前に出ていたノベライズにはあった、エヴァンゲリオンの「人類補完計画」的な人口進化を遂げ、一つになることで他者を失ったガミラス人とは違う、単に一個の命であることを超えて同胞を思い、過去と未来を繋ぐことができる地球人類の誇りを強調するセリフが、本編では削られてしまっていたのも残念。その上で、予算と時間の関係か、ビジュアルがごっそり削られていた巨大砲艦との戦闘シーンが描写されていれば、かつてのヤマトがそうだったように、言葉ではなく戦いの中で、熱っぽさといじらしさとを多少なりとも表現できたのではないか。


観賞後友人から、「当時はまだ「技術」ってのは巨大な物で、それを動かすにも熟練や作業者同士の協力が必要な点が大きい。スタッフはいっそスカイツリーの建設現場でも取材すればよかったのに」との指摘も聞いたが、確かに「SFだからこそ」、何がしかの実感のとっかかりになるような取材は重要だったかもしれない。要領よく様々なSF映画の要素をまとめたのだな(スターウォーズとかエイリアンとかギャラクティカとか)という印象が先立って、制作者自身から出たナマの体感由来の新たなアイディアがほとんど感じられず、それが「作り物に作り物を接ぎ木した」ようなチープな印象を強め、表面的な原作オマージュと共に作品世界の実在感を更に薄くしてしまっているから。
勿論、スカイツリーに譬えるなら、モニュメントとしての東京タワーとの興奮度の時代差みたいなものの反映も当然あるし、後続世代のやむを得なさではあるのだけれど、とにかく(科学考証とか演出すべて込みで)「あれ」を最初にゼロから作った連中のオリジナリティーの凄さを、逆説的に痛感させられたのは事実。
トータルとしてはやはり、結局最初のヤマトというのは、意図や作為以前に戦争の記憶が生々しくいきていて、生き残った世代の屈折した思いが整理されないまま刻まれていたことと、半面、戦後社会がまだ若々しかった頃のエネルギーがない交ぜになっていたことに魅力の肝があったのだなという感を、改めて強くせざるを得なかった。



結局、長々と不満ばかり並べてしまったけれど、こう言いながらも僕は、この映画に興行的に失敗して欲しくないと思っている。
映画会社やスポンサーがこうした挑戦的な企画(それは単に、ハリウッドのSF大作をそのままやるということではなく)に懲りてしまえば、金も手間もかかるこうした大掛かりで空想的な映画が、益々制作され難くなってしまう。
僕自身、数々不満を並べながらも、ヤマトが赤い大地を割って飛び立ち、超大型ミサイルを粉砕した黒煙の中から姿を現すあのシーンからは、今度の映画でも、他では得ることの出来ない種類の感銘を確実に受け取った。それが観られただけでも、入場料金分の投資は決して惜しくないと思っている。

最後に、本作で初めてヤマトに触れた方、あるいは久し振りに再会して「古いアニメって観返せばこんなものか」という感想を持った同胞に、せめて、第一テレビシリーズの、以下の二話だけは観てみて欲しい。かつてのヤマトの肝が何だったのか、大まかな所は理解して貰えると思う。

第12話「絶体絶命!!オリオンの願い星・地獄星」 http://www.youtube.com/watch?v=Q7SAWxIyzKI&feature=related

第13話「急げヤマト!!地球は病んでいる!!」 http://www.youtube.com/watch?v=NoEjf9vL4QU&feature=related


関連エントリー「昭和日本の神話 宇宙戦艦ヤマトhttp://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20091220#p1


ノベライズは、幻の石津嵐版小説に通じる、ひんやりしたSFテイストがあって良かった。映画を補完する意味でもお薦め。

SPACE BATTLESHIP ヤマト (小学館文庫)

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宇宙戦艦ヤマト DVD MEMORIAL BOX

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松本零士監修 「宇宙戦艦ヤマト」 大クロニクル

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松本零士・初期SF作品集 限定版BOX

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