『風立ちぬ』宮崎駿


予告編で描かれていた、地面が波打ち唸り声をあげるような関東大震災、昭和恐慌の取り付け騒ぎで銀行に群がる群衆たちの描写(そして、これも予告テロップとして流れた「苦難の時代を、当時の若者はどう生きたか」の言葉)などを観て、これは零戦に象徴される、貧しい後発帝国主義国家の栄光と悲惨を描いた、昭和版『坂の上の雲』かプロジェクトXのような映画じゃないかと、勝手に期待していた。


しかし、本編はそれとはまったく違った映画だった。
最近の宮崎駿の数作同様、物語としてのタイトな纏まりはほぼ放棄。主人公の幻想含めた、シーンの断片の緩やかな連続として語られるのは、「飛行機」という美と夢に憑かれたひとりの人間を、ひたすら追った物語だった。
堀越二郎という、当時のブルジョア子弟にして大エリートを主人公とする以上、そこに昭和の庶民一般の暮らしと歴史を仮託するのは無理筋だと覚悟はしていたけれど、それにしても震災も恐慌も、あの戦争さえ、敢えて遠い後景のように扱われていることに、拍子抜けしたような違和感があった。
あの軽井沢の夏のシーンの浮き世離れぶりなども含め、多くの論者が語るように、これはやはりブルジョア子弟にして、スーパークリエイターである宮崎駿自身が、今までにない正直さで、確信犯的に己を重ねたものだろうと、自分にも感ぜられた。


取り囲む時代状況との葛藤を、敢えて後景として静かにやり過ごすように進む物語の中、もう一方の大きなエピソードである恋愛も、主人公に大きな葛藤をもたらさない。
ヒロインは、病身でありながらサナトリウムをひとり抜け出し、主人公の元に走るような、意思的でアクティブなブルジョア令嬢として描かれているが、彼女の背負う「不治の病」という宿命が、逆に免罪符のように、家同士の結婚が当たり前だった当時としては考えられない程、恋愛成就のハードルを低くしている。
「野菊のような民さん」のように柵の前で弱く可憐であれ、などとは言わないけれど、やはりここも一般的な昭和の年代記とはあまりにも遠い。
そして、「限られた時間を、潔く、精一杯生きる」というレトリックによって、すべては「切なく、美しく」官能に飲み込まれてしまう。(あまつさえ、淋しがる彼女の傍らで図面を引きながら、煙草まで吹かしてしまう描写の潔さ!?には、正直、圧倒され言葉を失ってしまった)


では、期待と大きく違っていたこの映画を、自分が否定的に捉えているかというと、必ずしもそうではない。
「美しさ」だけではなく、一方で「正しい生き方」にも、一過言あったどころではない、ある意味そちらでも、一生かけて綺麗事に踏ん張り続けてき宮崎駿が、(譬え痛みや諦念を後景に感じさせる描き方であったにせよ)美しさを追う個的なアーティストエゴと、浮き世離れしたエリート性の方に、とことん正直に振り抜いた映画を作ったことに、驚きと不思議な感銘を禁じ得ない。
露悪的な居直りといった風は微塵もなく、あくまで今までどおりの美しい外見を貫いて、静かに差し出されるだけに、ショックはより深く複雑になる。


ただ、やはりこれは、あくまで選ばれたエリートの物語だ。
この映画のエゴを偉そうに糾弾できるほど立派な生き方などこちらもしていないが、ここまでまっしぐらに邁進するエゴの対象も、その才能も持たない(またおそらく、何よりも強く求めてもいない)自分は、作品と自分との(半ば置いてけぼりをくったような)距離の自覚を大切にしたい。
少し強い言葉で言えば、きいたような理解や共感を、容易く口にしたくない。
だから、天才の美しき業の告白を遠目に眺めつつ、貧しい元零戦乗りの息子、松本零士メカフェチ、アルチザンシップ礼賛、美女への憧憬と二人は相似形に見えるけど、やはり生まれ育ちが落とす影の違いは大きい)の描いた『戦場まんがシリーズ』の、前線の貧乏人たちの栄光と悲惨に向き合い、心のバランスを取りたいような気持ちにもなっている。