「キャプテン」と「キッズ・リターン」


下のキャプテンに関する日記に、mixiの方で熱のこもった感想をたくさんいただいて、僕の中でも予想外に考えが深まるきっかけになり、本当にありがたかったです。



特に文造さんの「キャプテンの魅力は敗者に対する厳しさだ」というご指摘には、はっとしました。



このことから僕が思い出したのが、北野武の「キッズ・リターン」。これも、僕が90年代以降の日本映画の中で最も好きな一本です。
この映画のラストシーンのセリフ、

「俺たち、もう終わっちゃったのかな」
「バカヤロウ。まだはじまっちゃいねえよ」


これを、少年の不屈のスピリットへの賛歌と取るか、永遠にはじまることの無い者もいるとう事実の冷徹な宣告と取るかは、今もって議論の分かれるところです。
しかしこれは本当はどうでもいい...とまでは言わないまでも、おそらくどちらもが正解なのですが、更に本質的に考えると「勝ち」とは何か、何を持って「勝ち」とするかという問いにぶち当たる。



かつて色川武大は、『私の旧約聖書』の中で「すべての優れた物語は、人間が、神とか、宿命とか、自然とか、己より大きく、律することの出来ないものに抗い、負けていく過程だ」「それ以前の、人間対人間の対決とか調停で解決の付くことは、本当は本質的な物語と言えない」といった意味のことを言っています。
そして「すべてを「諸行無常」というふうに、「一枚の絵」のように見立て、完結させてしまいがちな日本人作家には、物語において本質的な何かが足りない」とも。



キッズ・リターン」の肝と言うべきあのスパーリングシーン、金子賢安藤政信に打ちのめされるストップモーションに、宿命の厳粛さのようなものを感じたのは、僕だけではないと思います。
そして「キャプテン」「プレイボール」には、そうした「瞬間」が、わざわざ強調するまでも無く、当然の前提のようにそこここに現われる。
ごまかしようのない宿命が当然のように描出され、それを受け入れながらも、彼らは最後まで戦い続ける。



こうした厳粛さに対してどこまでも敬虔だったちばあきおの死は、誰もがそれを誤魔化し、逃げようとしていた(或いは、逃げられると過信したがっていた)時代の只中に、起ったことだった気がします。



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