野球、ちばあきお、大島弓子


今年は高校野球が面白かった。
まるで、『キャプテン』や『プレイボール』を読んでるみたいに、面白い試合が多かった。
面白かったと言っても、今の俺は日常的に地上波放送を観る習慣が無くなっているので、近所の定食屋のテレビで昼飯食いながらたまたま観た試合を、そのまま帰って観続けるってくらいのものでしかないんだけど。
自分にとって甲子園とか大相撲の中継っていうのは、その季節になると各家庭のテレビで付けっぱなしなっていて、観るともなしに観ているうちに時々夢中になってしまうような、ある種の季節観の象徴のようなものだった。
友人、知人のブログを読んでいると、マスコミの過熱報道に鼻白んでいる向きも多いんだけど、俺はワイドショーの類を全く見ないせいかそれ程実害を被らずにすんでいる。
自分の場合、もともと野球に特別な思い入れがないので、プロ野球ペナントレースなんかと違って、一発勝負に自分の青春全部賭けてるようなところに思い入れの取っ掛かりが持ちやすくて、子供の頃から高校野球は割と好きだった。
あと、自分の中で「当たり前」だった風景、習慣のようなものがいつのまにか一度廃れた後だから、世の中が一色に染まった空気への反発心が薄らいで、懐かしい気持ちの方が強くなっているというのもある。
そんな俺としては、唯一強烈に不満だったのが、甲子園のダイジェスト番組でバックに流れる変なニューミュージックみたいなキャンペーンソング。ああいったいわゆる「自己実現ソング」と、9人でやる野球って凄く相性が悪いと思う。
あれが『キャプテン』の「君は何かができる」や「ありがとう」だったら、俺も球児たちの青春の汗と涙に、もらい泣きくらいしてたかもしれないのに。



先日飲み会で、体育会系的なものと相性の悪い友人と『キャプテン』の話になった時、「野球なんて暴力そのものだ」って強い反発を受けたんだけど、俺は彼にまず同じちばあきおによる『半ちゃん』や『ふしぎトーボくん』を読んで欲しいと思った。
『半ちゃん』は、空き地に集まる下町の子供達を主人公にした、『キャプテン』の原型のような話。



野球が大好きな半ちゃんは、空き地の子供達を誘うために、どこからかお古のユニフォームと道具一式を調達してくる。
しかし、実際にみんなで野球をはじめると、運動神経の悪い半ちゃんは逆にみそっかすのようになってしまう。
けれど、子供達のチーム自体、外から見ればただのヘタクソで、よそから越してきたらしい経験者のイガラシ(これも『キャプテン』のイガラシの原型)にバカにされる。
最初は無視していた子供達だが、隣町のチーム(明らかに彼らより裕福な地域)との試合でボロ負け。強くなりたい一心でイガラシを仲間に加えるが、合理主義者で口の悪いイガラシに我慢できなくなってだんだん険悪になり、結局チームそのものが解散してしまう。
そして、誰も居なくなった空き地には半ちゃんだけが残る。
が、日が経つにつれ、暇をもてあました子供達は、遠巻きに空き地の様子を見ている。
そんな彼らを半ちゃんは「野球やろうよー」と、また誘っている、という内容。



『半ちゃん』には、子供達の間に前提として存在する差別や力関係が、しっかりと描き込まれている。
そしてその上で、彼らが横一線に集まり、存在することで起こる物語を、優しく見つめ肯定している作者ちばあきおの視線を感じる。
それは、俺には戦後民主主義の持っていたいちばん良い部分と、そのまま重なって感じられる。



ただ、このままだと少年マンガとしては、子供達をひきつける「ヒロイズム」と「感動」が薄い。
だから『キャプテン』でちばあきおは、「陰の努力の天才」谷口君を生み出し、中心におくことによって、見事に団結の物語へと昇華させた。
けれど、ちばあきお本人も語っているように、『キャプテン』や『プレイボール』にはあまり完璧な人間が登場しない。
2代目キャプテンの丸井は、お人好しだが直情径行で周りが見えなくなりがちだし、3代目のイガラシは皮肉屋のリアリストだ。そして、彼ら3代の特訓に次ぐ特訓によって、常に少数精鋭でギリギリの試合をしてきた墨谷二中は、才能はあるがムラっ気で自分にも他人にも甘い4代目近藤の代で、一気に弱くなってしまう。
しかし、彼の楽しい野球が、また将来の選手層の拡大を暗示させながら、『キャプテン』は終わる。
つまり、実は長編の中で『半ちゃん』と同じ円環を辿っているわけだ。



『キャプテン』『プレイボール』に続く『ふしぎトーボくん』は、そうしたちばあきおの透徹した視線がよりストレートな一作。
トーボ君は、動物の言葉がわかってしまうために気味悪がられて、他の子供とうまくいかなくなってしまっている男の子。
彼は、飼い猫として育ったためにサバイバル能力が無く、しかもネズミが獲れないために捨てられかけている猫や、一日中鎖に繋がれてロクなものを食べさせられず、通行人の子供に毎日のようにいたずらされているためにストレスを嵩じさせて、狂犬あつかいされそうになった犬などを助け、自分のところにかくまう。
彼らは動物の本能に照らせば、出来損ないの落ち零れで、その将来をトーボ君自身も決して楽観していないが、かといって見捨てることもせずにかくまい続けている。
そうしているうちに、彼らは少しずつ野良犬や野良猫の社会に触れ、尊敬の対象に出会ったりしながら、少しずつ自分の生き残り方を発見したり、でもやっぱり駄目なものは駄目だったり...といった過程がフラットな筆致で描かれていく。
トーボ君も、少しずつ友達が出来て子供社会に受け入れられはじめるが、ある日、彼が動物と会話できるのと同様、人間のわずかな仕草から嘘や内心が見透かせてしまうことが発覚。
内心が暴露されることを恐れた子供達はトーボ君を避けるようになり、最終回、彼は施設に送られてしまう。


こぼれ落ちるものが気になり、それを何とか掬いたい気持ちと、大前提として、人は自他の中に厳として存在する差別と保身、そこから生まれる理不尽に耐えながら生きて行くしかないという自覚。この両方が、空気のように自然に存在するのが、ちばあきおのマンガの際立った特徴だ。
情とかヒューマニズムといった曖昧な挟雑物をすーっと飛び越えて、まったくリキむことなく人の本質を描き出してしまう手触りは、他の作家で言うと大島弓子のそれに近い。それも、エキセントリックな初期よりも『綿の国星』以降、穏やかな諦念と受容が基調低音になった気配。
それをちばあきおは、キャリアの最初から持っていた。

ロストハウス (白泉社文庫)

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