続・小心、繊細なお人よし達の話


高校の頃、こんなことがあった。



3年生時の体育祭。俺の母校では毎年応援合戦を派手にやるのが恒例になっていたのだが、夏休み中もかなりの日数を使って練習するので、受験前の3年生にはキツい。特に応援団長には相当な負担がかかる。
自分のクラスは男子の少ない文系クラスだったから、団長の選出が揉めに揉めた。立候補者は誰もいないし、かといってくじ引き選出も、それぞれが都合を主張して受け入れない。結果的にいちばん気の弱い、最も団長に不向きと思える男に押し付けられそうになった。
そこで俺は担任に「団長は必ず3年がやらなければならない決まりがあるのか」と、質問した。はっきりそういう決まりがあるわけではないという答えだったので、じゃあ自分が事情を話して2年と交渉して来る、と提案した。すると「それでは3年としての体面が保てない」と、クラス全体の猛反発を受けた。かと言って誰も団長を引き受けるわけではないので、俺は構わず応援団顧問の教師と2年のクラスに話を通してきたのだが、その間にクラスでは例の男を団長にやっていく方向ですっかり一致団結している。そして、一旦決まってしまうとその男自身、まんざら嫌そうでもない。そしてそのまま無事に体育祭まで乗り切り、他のクラスメイトにとってはすっかり「良い思い出」になったようだ。
今にして思えば、俺の方も懐柔や根回しの工夫や配慮がなっていなかったし、あまりにも頭でっかち、馬鹿正直にやりすぎたんだが、こうした、理屈や筋道よりも、なあなあ、曖昧な同調でやった方がうまくいく現場は、良い悪い以前に、今も職場や学校の日常の常だったりはしないだろうか。この場合にも結局、「自分が団長を引き受ける」という綺麗な形にする以外、収まりようが無かったと思うし、正直自分にもどこかバツの悪い感情が残っている。



それは、やはり自分の中のどこかに、「調和を重んじる日本人」がいるからじゃないか。



卑近な趣味の話だが(だからこそ、生理的、本質的なことだとも思う)、子供の頃かなり重度のアニメ好きだった自分が、中でも一番好きだったのは最初の『宇宙戦艦ヤマト』だった。個人的な資質や受け取った年齢の問題も相当に大きいと思うけれど、その後夢中になったガンダムなどと比べても、やはり今もヤマトが一番好きだ。
ドラマの完成度も、人間の一人ひとりのディティールの描きこみもガンダムの方がずっと細かくて完成度が高いけれど、それでも俺は最終的に、個人のエゴのやりとりが前提になり、中心になった話よりも、個人の都合を超えた大きな状況に対して、人々が団結し、健気に乗り越えていく物語が、評価、善悪以前に好きなのだと思う。
また、ドラマや心理の直接的な描きこみが細かいガンダムよりも、書割で大雑把に描かれたヤマトの物語の背景に、より重いものを感じていたのだと思う。
放射能汚染された滅亡寸前の「赤い地球」。圧倒的な力を持つ敵を前に、人々が身を潜め最後の瞬間を待つばかりのほの暗い地下都市。干上がった海底に夕陽を浴びて佇む赤錆の戦艦大和。大地を割って蘇ったヤマトは、戦争で家族を失った老軍人と若者を乗せて、女神に導かれながら大宇宙を押し渡っていく。しかし、その勇気とロマンの物語の果てに、ヤマトは敵であるガミラス民族を本土決戦で母星ごと滅ぼしてしまう(「我々がしなければならないのは戦うことじゃない!愛し合うことだった」というセリフには、子供ながらに「さんざん今まで戦っておいて、しかも生きるか死ぬかの時にそれないだろう」と説得力なく感じたが、それでもガミラス星の滅亡の何とも言えない後味悪さは残ったし、こうした無意識の矛盾や混沌が、良くも悪くもまた日本人らしいと思う)。
こうした設定は、その後幾度も幾度も様々なマンガやアニメの中で繰り返し量産されて定番になってしまったけれど、最初にゼロから生み出されたヤマトのそれには、作り手達の意識、無意識の戦争体験が確実に色濃く影を落としている(あの波動砲にも、当初は確実に被爆国にとっての核兵器の暗喩が込められていて、全編26話中ほんの数回、しかも直接敵に向けては一度も使われることが無かった)。知識としては後付けだけれど、幼少期の自分もその陰影の濃さを確実に受け取っていたのだと思う。



しかし反面、物事の因果にこだわらず、調和と安定を第一義とする社会は、臭いものに蓋をし、責任の所在が曖昧な社会でもある。
自他の中にあるエゴと、そのせめぎあいや調停でなりたっている人間の現実を直視することを嫌い、形を綺麗に納めるために事を荒立てず、なあなあで納得しようとする和の社会は、必然的に弱い者へのしわ寄せを生むし、そのことを意識せず責任も取らない社会でもあることもまた、「浮き上がった田舎者」だった自分には骨身にしみている。
だから昔は、プロ野球高校野球を「みんなが楽しむことが当たり前」とばかりに世の中ぐるみで強制される雰囲気など大嫌いだった。今でもワールドカップやオリンピックを積極的に観たり、日本を応援したりすることに意識以前のレベルで抵抗があるし、高校時代のエピソードにしても過去形で書いたけれど、上京後に触れた人間関係も結局それと大差なく、筋を通そうとしては事を荒立てる結果になり迷惑がられるような失敗を繰り返している。



けれども現在、かつてのような一枚岩の「優しい一体感」が失われてしまうと、それを象徴する野球や大相撲中継などが無性に懐かしい。
勿論、自分自身はハズレ者だから、世間の一体感に奉仕するような本当の王道物語には一体化も感情移入もできない。だから、自分が一番好きなのは、そうした和の精神や日本人性を自分の中にも感じ、それに深い愛憎を持ちながら、同時に和の社会の人間も含めて根本的にはらむエゴイズムを直視し、さらにそれにも愛憎を刻みながらどこかで調和を希求するような「日本の異端者」たちと、その表現だ。
自分が笠原和夫色川武大に強く惹かれるのも、(そうした分析は後づけだけれど)結局そういうことだと思う。



結局、そうした和の社会や共同体を認めながら、自分はそれに愛憎を感じ、距離を取って生きていくという状態を、いちばん良いし現実的だと考えているんだと思う。
そして同時に、そうした和の社会を認めず、自分の感じているような懐かしさをただ「郷愁」と切り捨てて、「個人」や「理性」や「エゴ」や「自己主張」を自明のものとして疑わず、恥じらいや躊躇の感情を持たない、数学者か預言者のように「あるべき未来」へと人々を煽るような人や言論に対しては、理屈以前の生理的な反発を感じる。
さらに言えば、その傲慢不遜な浅はかさに、激しい怒りを覚える。
また、はじめから「個人」であることを許されていたような環境、階級に属する人の意見は、まったく参考にならないし(ヤマトに対するガンダムのように、俺には「軽すぎる」)、それが進歩的な模範解答のようにまかり通っている文化状況には強い違和感がある。



金子光晴は「若い人たちがリアリストになった」「リアリストたちは、身辺にしか目がゆきとどかず、買い手があれば、国民みなスパイにでもなりかねない」と書いているけれど、この現代の「リアリスト」たちが、日本的心性から脱した個人だとは、やはり俺には思えない(彼は、サブカル受けする脱社会的な気ままな放浪者の様なイメージがあるけど、物理的にも精神的にも外国がはるかに遠かった戦前に孤独に洋行し、放浪した彼は、だからこそ他者との摩擦の中で深く日本人としての自分を意識し、緊張感を持って掘り下げた)。
日常のしがらみや力関係から自由であるはずのネット上でさえ、「空気読め」と気持ちの悪い無形の世間を形成しようとし、「ネタ」だとエクスキューズしながら不器用なものを下に置き、埒外と規定して、自分の立場を相対的に上として主張するような、小心、卑劣で醜い日本語ばかりが目立つ。
彼らにまず必要なのもやはり、自分の中の日本人性の自覚であり、それが実態的な共同体を曖昧に離れたことによる変化の「負の部分」の直視だと思う。

宇宙戦艦ヤマト DVD MEMORIAL BOX

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