続 『少年時代』 

http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20041015で、

この映画の最も素晴らしいところは、最終的にすべての体験、記憶を、痛みや苦味も含めて「愛おしいもの」として受け止めているところだと思う(陽水のあの主題歌も、変に主観に入り込まない普遍的な叙情性が、この映画によくハマっていた)。それは、一部の戦中派表現者たちが共通して持ち、以降の世代にほとんど見られない美点そのものだ。
(中略)彼らのこの強さ(と、そこに発した優しさ)が、いったい何によって生じ、支えされていたのかを、詳しく知りたいとあらためて強く感じる。

と書いていたところ、下のようなご教示をいただいた。

もちろんこの「愛おしさ」の感情は、純粋な母性本能に還元できるような自然なものではなくて、都会の核家族化のすすんだ家庭においての、周囲から孤立しがちな母子関係のなかで培養される近親相姦的な欲望によって駆動されたものではあるのだけれど、この近親相姦的な欲望は人工的であることによって洗練された文化形成をうながし、そうした諸々のあまりに都会的なシステムが、田舎の子どもたちに進二にたいする憧れのようなものを抱かせている事実も見逃すことができない。(同時にこの憧れというものは、喪われた〔したがって人工的な〕過去を懐古するこの映画の基本的な性格を決定している)。


http://d.hatena.ne.jp/gesang/20041021


正直、母親のシーンはほとんど意識できていなかったので、とても興味深く読みました。ありがとうございます。


都市の洗練されたモダニズムの匂いへの憧れと、近代天皇制への庶民のイメージとして重ねられていたようなところは大きいでしょうね。それが、ある種母性的なイメージで彼らを包んでいたというのも、わかる気がします。
(ただ、例の、母親が迎えに来たことを伯父に告げる時、感極まって泣いてしまうシーンについては、母親が「田舎の純朴な人々」とさらりと語るイメージには到底収まらない、葛藤を孕んだ「現実そのもの」だった時間が、唐突に終わりを告げることへのアンビバレンツな戸惑いが、言葉は交わさなくとも「現実」を共有していた伯父さんの前で爆発してしまったものだと、僕は受け取りました)


僕が「一部の戦中派」と書いた時、まず念頭にあった中の一人が色川武大なんですが、母親との関係じゃないけれど、神楽坂の退役軍人家庭で父親に溺愛されて育った彼の成立過程にも、かなり重なるものがあるように感じました。
その彼の資質について、以前『文学界』の色川武大特集で、『海辺の光景』の安岡章太郎は、この親子関係に触れた後、

誰にしたって、小説家はひとりで成熟していくものではないんです。でも、色川くんは最初から巧かったに違いない。二十代の頃から『百』のような小説を書けたはずなんだ。ところが、「黒い布」から十数年も自分のなかで書くべきものを養って、じっと動かなかった。それに対して柳美里は、抑えられたものを一気に吐き出すような書き方をしているね。

色川くんのなかには「含羞」が盤居しています。しかし柳美里に限らず、いまの日本人には「含羞」が無くなってしまった。

と言っています。
これは確かに、核家族と言っても、戦後のものからは生まれない、階級的な落差を前提にした、生活の形と一体の誇りから生まれているなとは、確かに思います(彼自身は、抗い必死に反発もしたけれど、どちらにしろそれが根になっているというか)。




日記、他のエントリーも面白いですね。
http://d.hatena.ne.jp/gesang/20040917の、マイケル・ムーアについての文章なんかも、凄く同感、納得です。