しかし、古谷実はエライなあ。


よく、『ヒミズ』の虚無から無事に揺れ戻して来たよ。


僕といっしょ』『グリーンヒル』や、同時期の諸短編で彼は、貧乏だったり、ブサイクだったり、心が弱かったり、頭が悪かったりで、なかなか世間への取っ掛かりもなく好意も得られない連中が、「成長によってその状況を乗り越える」といったわかりやすい救いもないまま、そんな自分たちを認識したり、勘違いしたままだったりしながら、それなりに生きることに慣れ(馴れ合い)生き伸ばしていく、という話を描いてきた。
それらは、安易な救いや気休めこそ描かなかったけど、裏っ返しのダメ人間賛歌でもあって、そこが当事者にとっては慰めに、それ以外の一般読者にとっても「可愛い」「オカシイ」という処理の仕方でミもフタもない断絶を誤魔化す効果がはたらいて、結果的にうまく読者との馴れ合いが成立していた。


けれども、古谷はどうにもその関心が、どうしようもなく救いがたい人の方へ、そして、そういう人に対して無力な「生きる意味」とか「正義」などといったお題目を徹底して疑い、検証する方へと向かっていってしまう性質の持ち主だったようで、そうした自他の曖昧さを誤魔化しとも感じて、よしとすることができなかったのだろう。
ヒミズ』では、不幸な条件の中で、盲目の希望とか、意識する以前にできあがった周囲との絆とか執着といった、生きていくための手がかりを持ち損ね、またそれを意識してしまっているために自分の資質や状況を逸らせず、ストイックになってしまった若者の孤独な彷徨と自滅を描いた(とにかく、ある程度生きてしまえば、人間、「生きてしまった」事実に慣れ、またその中で正負含めて積もり引きずっている感情と馴れ合ったりしながら、とにかく生き延ばしていけたりするものだが、生きてる時間そのものが少ない若者は、なかなかそうはいかない)。


しかし、そうした虚無や理不尽は、案外そこここに平気で転がっているものだったとしても、「それはそれとして」その傍らにはひとまず平穏な日常がある。それぞれの生を一喜一憂しつつ、意味を見出したり、見出すまでも無かったり、不本意ながら惰性でだったりしながら生きている人々を、虚無の存在を理由に誰かが否定するというのも、それはそれで青く傲慢なことだろう。


けれど、実はその平穏な日常自体の中にも、虚無が入り込んでいるのが現在でもある。生きる意味が空白だったとしても、日々の安楽、快楽がそれを上回り、生きられてしまっているうちは取りあえず問題は表面化しないけれど、今ではそれだけが生きる価値なのだとしたら、そもそも安楽や快楽から見放され、人間関係や執着の取っ掛かりも持たないまま放っておかれているような人間は、どうやって生きていけばいいのだろうか?
その問いに対する、万能の答えなどない。共有される意味や正義を見失った、底の抜けた世の中では、尚更。


そして『シガテラ』は、現実の幸せ(快楽や安楽や人間関係)からキッパリ見放されているわけではないけれど、それを得ることがそれなりの難事業でもあるような、普通(よりやや下くらい)の主人公が、この底の抜けた世の中で、それでも生きることを否定せず、万能の答えを持たないなりに、虚無に落ち込まずに生きていくため、自分の欲求や人間関係のひとつひとつを確認して、自分なりの生きるリアリティを丁寧に積み上げていくような物語だ。


そこで浮かび上がってくるのはまず、人間、自分の生きる条件の大半は、自分の意思を超えた偶然や、運、不運で決まってしまうということ。


不遇な毎日の中、自分を冴えないいじめられっ子だと思いこんでいた主人公、荻野君は、地味で洒落っ気はないけれど、実は女子の中に隠れファンが存在するような可愛いルックスをしており、自分の意思や努力と関係なく、可愛い南雲さんに惚れられて相思相愛の関係になる。
好きなバイクにのめり込む事によって、いじめの辛さから意識に距離が持て、日々に自分のリズムが生まれても来る。
結果、同じいじめられっ子だと思ってた友達と、いつのまにか決定的な距離が生まれる。
永遠に続くかと思われたいじめも、いじめっ子の方の事情で、唐突に終わってしまう(そう、いじめなんてのは大抵、自分の力ではどうにもできず、卒業という外の事情によって勝手に区切りのつくようなものだ)。
けれど、それらは彼自身が意識し、行動して得た結果ではないから、彼の中には曖昧な頼りなさがずっと残っている。


その頼りなさの核にあるのはやはり、美人だけど素朴で、俗っぽい欲望のあまり強くない、南雲さんという、自分には過ぎた彼女との恋愛だ。


ヒミズ』の主人公は、周りに執着や手がかりを持たないまま、「人間の生きる意味」といった漠然とした問いへと直進してしまい、変態やストーカーなど新聞記事のように極端なディティールの中で、虚無をさらに深めてしまった。
けれど本当は、大抵の人間は、そうした抽象的な悩みで死んでしまうほど高級にできていない(『ヒミズ』の主人公は、酷い家庭環境の中での人格形成とか、単に抽象的では済まない背景を持っていたけど、わざわざそうしたストイックな設定にひかれ思考してしまう古谷の興味の在りかたは、相当に抽象的、観念的だったはずだ)。
上司や同級生が苦手だとか、惚れたはれたの下心だとか、容姿や能力へのコンプレックスだとか、卑小で俗っぽい(だから恥ずかしい)悩みを抱えながら、なんとかどこかに引っかかり食っていこうと、それぞれ必死にやっている。
そして、不器用で暇な若者なんてのは、それを直視するのが恥ずかしいから、問題を「人間とは?」なんて大きなところへずらしちゃったりしがちなものだ。
もともと古谷作品では、そうして観念的に直進しがちな男子を、日常、生身のリアリティの方へと引き戻す象徴として、たくましく日常に順応した(あるいはしようとする)、大きくバランスを崩すことのない女子が設定されてきた(『ヒミズ』の茶沢さんとかね)。そこに、古谷の謙虚な誠実さの表れを見て好意を持つ半面、正直そこだけちょっとファンタジーだよな、とも思ってきた。


が、ここにきての『シガテラ』は、その南雲さんへの試練、修行編的な話が続いている。
一念発起して始めたバイト先に、例によってブサイクな店長がおり、自身の容姿へのコンプレックスゆえか、ルックスで甘やかされた女性を信用しない偏屈なタイプで、事毎に彼女に厳しく当たる。
それにまいっていた南雲さんだが、ある日、彼が大切に肌身離さず持っていたタオルを汚してしまったことをきっかけに、実は孤児だった彼の、母親を知らない不幸な生い立ちと、それゆえの女性コンプレックスを知る。彼が母親代わりにずっと握り締めていたタオルを汚した罪悪感もあいまって、恋愛経験の薄い彼女は彼に好意とまではいかないまでも微妙な感情を持つようになり、彼の性的な悩みを聞くうちに、あやうく一線を越えそうになってしまう。
が、それは結局、実は彼の経歴がすべて嘘であり、この手口で多くの女子を騙してきた罪歴が露見することで、彼女の中に不用意な同情への罪悪感を残しながらも、とりあえず事なきを得る。


けれどここでも、問題は状況の変化によって遠ざかっただけで、彼女が荻野君との関係を、別の欲望を抑えてでも守りたい理由や、他者への信頼や同情を、虚無に飲まれず、しかし自分の欲望や限界を見失わない距離感として、本当に確かめられたわけじゃない(本来、こういうぼーっとおとなしく気のいいタイプの女子というのは、おおらかな分許容量も大きいけれど、状況が自分の快感原則の範囲をはっきりと超えた時には、拒絶も(意識的でない分尚更)きっぱりとしているものだ。それを超えて現実を踏まえ、自分を律することができるには、それを支えるだけの環境や動機が必要になってくるはずで、そういう意味では彼女の家族関係の描写なども、今後期待したいところ)。


そして荻野君は、今後の学歴や進路、人間関係によって開いていくだろう南雲さんとの距離への不安に、向き合いはじめている。


必ずしも、2人のラブストーリーのハッピーエンドとして完結しなくてもいいけれど(といっても、内心はかなり思い切り感情移入しちゃってるんだが)、虚無にも、気休めにも傾きすぎることなく、リアリティを踏み外さないで誠実に生きていくための納得の仕方の一つを示すような、成長物語を指向、挑戦してしていって欲しいなと思う。
相当に難しい仕事だと思うけれど、とにかく、今後にますます期待。


シガテラ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

シガテラ(1) (ヤンマガKCスペシャル)


シガテラ(2) (ヤンマガKCスペシャル)

シガテラ(2) (ヤンマガKCスペシャル)


シガテラ(3) (ヤンマガKCスペシャル)

シガテラ(3) (ヤンマガKCスペシャル)