酒井順子『日本エッセイ小史』

院の待ち時間に、酒井順子『日本エッセイ小史』を。
「しかし『金魂巻』では、マルビの女子大生が「バイトで買ったバレンチノのバック」を大事に抱えている姿をヘタウマのイラストで描かれていたからこそ、読者は安心して笑うことができました。格差をレジャー感覚で楽しむ強さと鈍感さが、この頃の日本人にはまだあったのだなぁと、思います」
「ゴム製品を使わずに買春をする吉行は、いつも性病に怯えています。ある時、心配な症状が現れたのでシモ関係の主治医を訪れると、検査の結果、悪さをしていたのは性病の菌ではなく大腸菌だったことが判明。ホッとはしたものの、
「私は内心甚しく赤面した。その数日前に、私は男娼と寝ていたからである」
との文章で、サゲ。
今時の男性物書きや、伊丹十三系エッセイの書き手には、決して真似することができないであろう、この「私」の開陳ぶり」
タモリの顔はなぜ気持ち悪いのかから田中邦衛のもみあげ評、大平正芳首相(当時)の田舎っぽい顔についてまで、忖度ゼロで好き嫌いの直感を、披露したのです。今だったらルッキズムなどと言われかねませんが、テレビは良い・悪いで評するものではなく、好き・嫌いで分けるべき対象なのだ、という意識が、そこに見えるかのよう。そんな森茉莉の感覚は、八十年代に充満していく軽みを、的確に捉えていました」 
一見フラットな紹介の体で、自分の立場を玉虫色の安全地帯に置く書き方を、自分は本来好きでないのだが、誰もが規範や権威を盾に取り、他罰的にいい子になりたがる神経症的なこのご時世においては、女性らしいミーハーな軽みと人を喰ったこまっしゃくれぶりに、狭いところに入り込むことのないしぶとい自由と頼もしさを感じている。
そしてそれは、定義曖昧で幅の広いエッセイというジャンルを愛読してきた愉しさに、しっかりと裏打ちされているとも。
つまり、本書での彼女自身の態度もまた、何にも頼らず詩人の魂(感性)に賭けるエッセイストのそれだと思った。